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(0) Backup AIPS_190712

(1) Hagiwara Yoshiaki Photo Gallery

(2) Hagiwara Tomie E_Tegami ( Picture Letter Message )

(3) Introduction to Japanese Short Poem (WAKA)

(4) Activities at Community_Cafe_Ogino,Atsugi-city,Kanagawa

(5) Activities at Society of Semiconductor Industry Specialists (SSIS)

(6) Introduction to the world of Artificial Intelligent Partner System (AIPS)

(7) Introduction to the world of Super Light Sensitive Image Sensor and Solar Cell

(8) Introduction to the world of Digital Circuits for Artificial Intelligence

(9) Study English and Korean Languages for Fun

(10) Hagiwara Yoshiaki Published Paper, Invited Talk and Patent Lists

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(8) Introduction to the world of Digital Circuits for Artificial Intelligence


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https://www.seizansha.co.jp/ISBN/ISBN978-4-88359-339-2.html

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これは71歳じじいのぶつぶつぼやきの独り言です。

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毎朝6時前から1時間ほど、お天気がいい日は、

 自宅のそばの小川沿いや野道を Walking。

 毎朝、健康のために、妻と萩原は歩いています。

 その時に萩原が撮った写真と妻の絵手紙です。

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●荻野中学校の7月の絵手紙はこちらをclick してください。


2019年
 1月、 2月、 3月、 4月、 5月6月

2018年 12月11月10月8月6月5月 3月 1月 

の荻野中学校の絵手紙です。


日本半導体産業人協会(SSIS)の教育委員会委員として
 奉仕しています。また、春と秋に開催の半導体技術講座で、
  「イメージセンサー賢い目」の講師として奉仕しています。


韓ドラを見ながら、ハングルを学習しはじめました。

中学数学でわかる「特殊相対性理論」

小学校の算数の問題「油わけ算数」


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       萩原良昭著書の紹介です:

「人工知能を支える、デジタル回路の世界」

     萩原1975年特許の画像

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Pinned_Photodiode_and_SONY_HAD_Sensor_invented_by_Hagiwara.pdf


CCD Image Sensor が発明された当時、残像のない高速アクションカメラが
実現した。しかし、受光部に金属性電極があり、光を反射し、特に短波長光
の感度が悪かった。また、MOS電極では界面に強い電界がかかり、表面
暗電流が多く、白点が多発し、CCDの歩留まりが非常に悪かった。

そこで萩原は、CCDのMOS電極構造の受光素子構造でなくても、残像の
ない完全空乏層電荷転送( Depletion Photodiode) が可能でかつ、表面
電圧をMOS電極で固定するのではなく、濃いP+の Home Accumultion層
で電圧を固定(ピンどめ)する、P+NPNsub 接合型の Pinned Photodiode
を発明した。

CCDですでに完全空乏層電荷転送が実現していたので、残像のない映像に
関しては全く新規性はなかった。

しかし、短波長感度が良いこと、また暗電流が抑圧される事を萩原は、
日本で開催された国際学会の固体素子コンフェレンス1978で発表した。




そして翌年、萩原は、CCDの国際学会 CCD'79 に招待され、その詳細を
発表した。当時、CCDの特性に限界を感じて開発を断念する企業が多かった。
そんな中で、萩原の発明は、CCDを電荷転送装置(CTD)としてはまだ利用
価値のある事を証明した。

半導体受光素子としてのCCDは不適当だったが、萩原の発明が、CCDを
延命させる事につながった。CCDの価値が大きく評価されたのは、萩原の
発明があっての事であった。しかし、CCDだけが脚光を浴び、萩原の発明
はその陰に隠れて全く社会的評価の対象とならなかった。SONYはCCDの
欠点をどう補うかでたいへん苦労した。まず消費電力が大きく、電荷転送
効率にも限界があり、デジタル時代の高解像度Image Sensor には不向き
であることは自明だった。SONYはだまし、だまし、CCDを使っていたと、今
となっては、言っても過言ではない。特に萩原の受光素子の発明のお蔭で
超高感度で低雑音で低暗電流の受光素子が実現したが、その成果は、
すべて、CCDの特徴だと誤解されたままだった。そのお蔭で、CCDの
発明者だけが、社会的評価を受けて、ノーベル賞を受賞したと言える。

しかし現在、CMOSプロセスの微細化技術が進歩し、CMOS型の電荷転送
装置の方が、省エネルギーでかつ、デジタル高解像度テレビの時代となり、
CCDの電荷転送効率(99.999%)では不十分である事も要因となり、CCDは
ビデオカメラの市場から、現在完全に消えてしまった。CCDのもろさが完全
に暴露された事になった。しかし、1975年に萩原が発明した、半導体受光
素子は今でもすべての世界のImage Sensor に採用され活躍している。

その受光素子構造 (P+NPNsub 接合型 Pinned Photodiode )の発明者
がもとSONYの萩原良昭である事は、以下の文献がその証拠である。

萩原は、「電子の目」の発明者である。

See the CCD'79 paper on the Pinned Photodiode used in SONY FT CCD Imager.

萩原のこの論文は、萩原が1975年に出願した、3つの日本国特許(海外出願なし)
の 1975-127646 と 1975-1276471975-134985 のアイデアを基盤としていた。

萩原は (1) Buried Photodiode の発明者であり、(2)Depletion Photodiodeの
発明者であり、(3) Pinned Photodiodeの発明者であり、(4)裏面照射型の
Pinned Photodiode 搭載のImage Sensorの発明者であり(5)MOS型の一時
Bufffer Memoryを装備した、Global Shutter の発明者であり、さらに (6)強い
光の入射でも画質を保持する縦型 Oveflow Drain (VOD)の発明者であり、
(7)また、その縦型 Overflow Drain (VOD)を使った電子shutter の発明者
である。 (電子shutter 機能については、基本特許 1977-128885 を参照)。












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●トランジスタの発明

1947年、ベル研究所の理論物理学者ジョン・バーディーンと
実験物理学者ウォルター・ブラッテンは、半導体の表面に
おける電子的性質の研究の過程で、高純度のゲルマニウム
単結晶に、きわめて近づけて立てた 2 本の針の片方に電流を
流すと、もう片方に 大きな電流が流れるという現象を発見した。

最初のトランジスタである点接触型トランジスタの発見である。


固体物理学部門のリーダーだった ウィリアム・ショックレーは、
この現象を増幅に利用できる可能性に気づき、その重要性を
認識し、2人が実験結果だけをすぐに技術発表する事は時期
早々と判断し、上司として禁じた。その後、数か月間に大いに
その動作原理について研究した。この研究は、固体による増幅
素子の発明として、1948年6月30日に3人の連名で発表された。

実験化と理論家の共同作業であったが、これは今思うにPower
ハラスメントではなかったかとも解釈される。職権の乱用である。
そのお蔭で重要な実験結果が国際社会の学識者の目に入る
機会を与える事なく、ウィリアム・ショックレーがその理論考察の
を独り占めして理論展開していたという事になる。

トランジスターとは、transfer (伝達)と resistor(抵抗)を
組み合わせた合成新語であり、即、ジョン・ロビンソン・ピアース
によって、同じ年の、1948年に名づけられた。


しかし、当時はまだ、このトランジスターの価値はあまり
理解されていなかった。

その用途は電話機の交換台の Switch どまりであった。

それを増幅回路として、小型トランジスタラジオに応用しよう
とした米国企業会社があったが、特性が不安定で量産でず、
倒産したとの事である。

その時、SONYの創設者の井深大は、その失敗談がある
のにもかかわらず、「勤勉で器用な日本人ならできるかも」
と考え、その実用化の可能性に、社運をかけた。

すぐさま、トランジスターの特許使用権を購入する為に、
井深大は行動を起こした。まだ山のものとも海のものとも
わからない、トランジスターの基本特許を、格安で、当時の
金額で500ドルで購入する事ができた。

井深大はその特許購入の為に、東大物理学科卒業の
岩間和夫と渡米した。

岩間はその時、ペンシルバニア大学で開催の、初めての
電子電気回路の国際会議、今のISSCCの最初の国際会議
(ISSCC1954)に出席した。

その60年後、2013年のISSCC2013の創立60周年記念の
学会では、萩原は Plenary Panel Session で SONY の 
Image Sensor の開発技術者として Plenery Panel Speaker
として招待され、講演している。

SONYが、このトランジスターの基本特許を取得してから、
60年が経過していた。その間に、SONYは世界に誇る
国際企業として成長した。60年前に、小さな戦後日本の
ベンチャー会社だったSONYはその格安で取得した、
トランジスターの基本特許を武器に、自社でトランジスタ―
を製造して、自社で、小型トランジスターラジオを生産販売
する事に取り組み、大きく成長する事になった。


トランジスターは、SONYのトランジスターラジオの
鍵となる、半導体素子として、量産実用化され、
真空管に代わってエレクトロニクスの主役となった。

これは SONYの技術者の努力と創意工夫貢献が
あっての話であるが、その事は国際社会では、全く
技術評価される事はなかった。

SONYがビジネスで成功した事だけが評価され、
技術的には、単純に、日本人の猿マネとして、
国際社会では受け止められていた。

一方、トランジスターの発明として、ベル研の研究者
3人は、この功績により、1956年のノーベル物理学賞を
受賞している。

本来は、発明者と、その開発実用化創意工夫に
貢献した技術者の両者が同時に評価されるべきもの
であるが、その風習はなかった。今でも一般にない?

その裏には、SONY がベル研の究所から格安で特許を
購入できた事があり、「SONYは運がよかった。」との
冷たい社会認識であった。

その特許という武器を格安で入手できて、SONYが
トランジスタの量産技術の実現し注力し、実用化をし、
ビジネスを立ち上げる事ができた事が大きいとの認識
だった。しかし実は、その実用化の過程は、単純な
猿マネではなかった。量産に関する多くの問題点を
ひとつひとつ解決して行く努力と、その中で、いろいろ
な、独創的な、創意工夫があった事が成功の鍵だった。

その裏には、勤勉なSONYの技術者、岩田三郎氏や
川名喜之氏や加藤俊夫氏の他、SONYの多数の技術者
による、いろいろな量産に耐える、bipolar transistor
生産技術の工夫と努力があったからである。

この事実はあまり知られていない。

当時、SONYのトランジスターの生産技術は世界一だった。

その証拠がある。

米国大手半導体メーカの Texas Instrment 社 (TI)の技術者は、
SONYとの技術提携を求める程であった。

SONYは その Know How を、会社のTOPの方針として、
惜しみなく、TI に開示した。SONYは、その後、それがもとで、
TI 社と一緒に、TI Japan を設立した。後に、多くの日本の
大手半導体メーカがTI 社所有のキルビー特許で悩まされる
中で、SONYは、多額の特許使用料を支払う事はなかった。

また、SONYは、自社開発のトリニトロンテレビ用の信号処理用の
Bipolar LSI chip を 1970年初頭 SONY 厚木工場の生産していた。

東洋一と言われた、SONY 厚木工場の9号館のbipolar transistor
集積回路の製造ラインで量産していた。

萩原は米国留中 (1965~1975)、1971年の夏と、1973年の夏に
SONYを訪問していた。SONYの創設者の井深大の遠縁で、萩原
の母校の CalTechの電子工学部の大学院に、萩原の先輩として
同じ大学院に留学していた、5歳年上の前田尚利氏の紹介に
よるものだった。萩原が久しぶりに日本に夏休みに帰国する事を
知って、「東京見物を兼ねて、SONYを訪問して見たら?」という
軽い気持ちでの、大学の先輩の紹介だった。

夏季特別実習生として、当時、品質保証部の宇野義道主任の
指導のもと、SONY厚木工場のこの bipolar transistor LSI 製造
ラインで実習し、Sony のビジネスを陰で支える半導体生産技術
力のすごさに感心した。。また同時に宇野主任と小笠原主任が
指揮していた、SONYの半導体LSIチップの総合測定技術と信頼
性技術の力強さを実感しながら学んだ。

当時の SONY の Bipolar LSI のプロセス技術と chip 評価測定
技術が後進に継承され、現在の SONY の Image Sensor の
開発生産技術だけでなく、その測定評価技術の基盤となって
いる事は、まったく社内でも社外でも、あまり知られていない。


●1T1C型 DRAMの発明の背景

国際社会では長い間、IBMのDenard の1967年の発明だと
誤解されていたが、後にNECの榎本と一条により日本国特許
が1966年に出願している事が判明した。

現在では、1T1C型 DRAMの発明は、NECの発明とされている。

海外特許を出願していなかった事で社会的の評価が遅れた。

最初は、3T1C型型 DRAM の方が安定して生産が可能で
Intel 社は、その商品化に1970年成功し、大きく成長
する事となった。1975年になり、1T1C型 DRAM の
商品化に米国 TI 社が成功し、1T1C型 DRAMの大容量
メモリー生産の時代となった。

NEC はその基本特許保有社として大きく日本の半導体産業の
最大製造メーカーとして貢献した。ここでも、自社保有特許
の存在が、大きくその後の社内のビジネスを大きく左右した。

日立もその後 Stack 型とTrench 型の1T1C型 DRAM Cell の発明
で、大きく DRAM ビジネスで有利な立場を維持した。日本の
半導体産業が、米国の半導体産業を大きく引き離した時代だった。

Intel はこの時、DRAM 市場から撤退に追い込まれ、存続の危機
に陥るが、その後、Processor に特化した戦略で立ちなおる。



●デジカメに不可欠なUSBメモリーとして、現在世の中に普及して、
一般に広く知られている floating gate型不揮発性メモリーは、
米国ベル研において、最初に発明された。

2枚の電極容量の間にもう1っ層の浮遊電極( Polysilicon電極)を
設けて電荷をそこに蓄積するものである。書き込み読み出し回路
構成を NOR型とした。電気的に一括消去が可能な、Flash Memory 
と呼ばれるものである。Intel社が商品化した。

そして、東芝が、NAND Flashの形で、さらに集積度を向上させ、
コストダウン商品化に成功し、今の日本の半導体産業の利益頭と
なって、現在に至るが、NAND Flash の発明の背景には、次の
説明する Image Sensor の開発史と同様に、冷酷な日本企業の
実態を見ることができる。


● Image sensor の発明とその背景

CCD が1970年に発明され、当時は、未来の大容量メモリー
や Image Sensor への応用に非常に期待された。しかしすぐに、
大容量メモリーは 1T1C 型DRAMが主流となった。1975年に
なると、もはや世界で大容量メモリーとして、CCD を採用する
企業は皆無となった。

CCDの問題は、大容量のMOS電極を常に駆動する必要があり、
大容量電極 Capacitor の充放電による消費電力が大きいという
致命的な欠点があった。

一方、Image Sensor への応用でも、MOS型の金属電極構造の
受光素子構造では、短波長の光感度が乏しく、CCDでは色再現
が悪く、またMOS電極は酸化膜シリコン界面に強い電界がかかり
表面暗電流やトラップ雑音が悪く、また白点が多発し、生産性が
悪かった。なかなか全くキズのない silicon chip を製造する事が
難しかった。そのCCD 型電荷転送装置を採用したImage sensor
の複雑なプロセスを断念する企業が多くなった。

実際当時、「世界では、SONY一社だけが、CCD Imager の延命
に注力している。」との印象を与えるほどだった。

一方、1T1C型のDRAMプロセスと同様な単純で製造可能で、かつ
生産性に優れた、MOS型電荷転送装置を採用した、Image Sensor
に注力する企業が多くなった。日立はその代表的な企業だった。

そんな中、1975年2月萩原がSONYに入社した時点では、SONY
は岩間社長の陣頭指揮のもと、あきらめずにCCD Image Sensor
の開発研究に注力していた。萩原は米国 CalTech で 埋め込み
型 CCD の電荷転送の動作解析をテーマに PhD の学位を取得し
帰国して SONY に即入社し、SONY の横浜中央研究所に配属され
たところだった。

萩原が最初に担当したのは、透明電極を採用して Interline 
Transfer電荷転送方式の CCD Image Sensorの設計開発だった。

その試作chip の8番目の、 ICX008 で実用化に耐える chipが
完成し、SONY は日本ではじめて CCD image sensor の商品化
に成功した。その CCD chip は、Two Chip CCD カラービデオ
カメラとして、全日空に納入され、ジャンボ747ジェットの
コックピットに搭載され、固体撮像素子の信頼性の高さを実証した。

SONYはその成功に自信をもち、透明電極採用の Interline
Transfer電荷転送方式の CCD Image Sensor を採用した、
One Chip ビデオカメラの開発商品化を本命として全力を
集中する事となった。

しかし、MOS 電極型の受光素子構造では、酸化膜界面に
強い電界がかかり、表面暗電流が多く、白点が多発した。
なかなか、キズのない良品チップを製造する事ができな
かった。

CCD の設計を担当していた萩原は、透明電極の将来性を
疑うようになった。

白点が多発し、暗電流が多い、量産性に乏しい、透明電極
を受光素子として採用する事に将来性がないのでは、と
疑問を持つようになった。

逆に、表面が金属性で鏡の様に光を反射する MOS 電極を
なくせば、短波長感度は向上するし暗電流が減少する事は、
当時、誰でも理解できることだった。

しかし、従来の、MOS 電極のない、 N+P 接合型の
受光素子では、残像があり、これではカメラ事業部の
厳しい要求には答える事ができない。


CCD型の、MOS型容量の良さは、完全電荷転送が可能で、
残像のない、高速アクション撮影が可能となった。

ジャンボ747の離着陸の映像でも、残像がなく、鮮明な
高速に動く風景でも鮮明な映像が得られた。

その残像のない機能が、CCD・MOS型の受光素子でなく
ても可能ではないかと、萩原は考えた。bipolar transistor
構造がヒントとなった。もし、単純な N+P 接合型 diode
ではなく、P+NP 接合型の bipolar transistor 構造の
受光素子構造としたらどうだろうかと、萩原は考えた。

N+P接合型 photodiode に残像があり、萩原が発明した
P+NP接合型構造では残像がない事を社内で説明する事
自体たいへん萩原は苦労した。理解できる技術者が皆無
だった(大涙)。既に透明電極で残像がない映像は実現
しているので、残像のない映像は当然であるという事で
その原理動作にもまったく関心がなかった。



どの様に、このアイデアを、半導体デバイス物理の理解
が乏しい、CCD開発担当者(先輩・上司)に切り出せるか、
萩原にはわからなかった。アイデアを特許にまとめるのが
先決と考えたが、まだ、新入社員でもあり、萩原は特許を
書いた事がなく、その書き方もわからない新入社員だった。

しかし、曲がりなりにも特許を出願する事ができた。




しかし、逆に特許出願は、社内では秘密扱いである。その
アイデアを関係者以外他言することは、禁じられていた。

どこの企業でも同様だが、特許出願は、上司と関係者のみに
情報シェアされる。一般社員には、誰がどんな特許を社内で
出願しているかについては、全く情報シェアされることはない。

その組織の長だけが、すべての特許出願情報を1人で把握する
事になる。独り占めする事になる。会社は組織で動き、命令系統
で動く、独裁体制と言ってもいい。特許など重要な情報には当然
情報統制の対象となるのが当然である。そして問題も生じる。

部下の特許のアイデアをヒントに秘密裡に、場合によっては
部下のアイデアを盗んで、ピンはねする事が可能である。密かに
部下のアイデアを盗んだ上司が1人で特許出願する危険がある。

しかし、会社にとっては誰が出願しようがどうでもいい事である。
いずれにせよ、特許はすべて会社の財産とされるからである。

しかし、その実績評価はアイデアを出した部下には行かず、
組織の長にのみ集中するという、たいへん unfair な場合が
生じる場合もある。

実際、萩原のアイデアは職場の当時の上司に盗まれた例が
いくつかあった。しかし、この最初の特許は、幸いにも、当時
の上司には、その価値が理解できず、上司に盗まれる事は
なかった。そういう意味では幸いだった。

逆に「価値がない」ということで、特許出願の許可をもらうのに
萩原はたいへん苦労した。それも、国内特許出願どまりで、
海外への特許出願の価値はないとの判断であった。当時、
新入社員だった萩原には、はじめての特許出願でもあり、
反論の余地はまったくなかった。

海外特許出願されず、また、社内でも、秘密扱いとなるのが
この特許出願の運命だった。この特許が、後の、SONYの
Image Sensor のビジネスに大きく寄与するとは、萩原も
含めて、誰も、予期しなかった。当時はまだ SONY HAD
センサーの基本特許である事を、SONY社内でも、誰にも
知られる事はなかった。

後に、米国大手のFairchild 社やKODAK社、日本の半導体
大手のNEC 等から、SONY HAD に対する特許攻撃を
受けることとなった。SONYはこれにはたいへん苦しむ事
になる。あわてて社内の特許出願リストを洗いだした。

萩原の特許がはじめてSONY社内の一部の特許担当者に
注目される事となる。特許裁判自体が社内極秘で取り扱わ
れる素性のもので、まったく社内でも社外でも萩原の特許は
一般には情報シェアされないままであった。


そんな重要な特許であったが、当時はだれもその存在も
価値も社内では理解されなかった。

萩原がこの特許を発明した当時は、まだSONY社内では、
透明電極を受光部に採用した Interline Transfer 方式の
CCD Image Sensorが本命と、誰もが信じていた時だった。

そんな中で、その方針に、新入社員の萩原1人で反論する
事は、たいへん勇気を必要とする事だった。

今さら原点にもどり、従来のN+P接合の受光素子にもどる
事に抵抗があった。その表面に濃い不純物濃度のP+層の、
hole accumulation 層を設けるだけの話であるが、その事
が理解されなかった。

すでに Interline 方式は、透明電極を採用した構造で
残像のない映像を可能としていた事で満足していた。


ひとつの事に成功するとそれを捨てる事が難しくなり、
固執することにより、新しいものを逃してします事になる。

今さら萩原のP+NP接合構造の受光部を積極的に採用
しようとする理解者はだれもいなかった。

それでなくても Interline Transfer方式のCCDは、たいへん
プロセスが複雑である。せっかく苦労して確立してきたものを
再び、N+P接合型の受光素子構造の原点にもどり、それを
改良して、P+NP構造にする等というアイデアは全く受け入れ
られる提案ではなかった。また開発スケジュールを遅らせ、
商品化計画も遅らせることになる。まったく、CCD開発TOP
の越智さんには理解できなかった。一方、プロセス担当者は
越智さんから「プロセスが未熟だから」と責任逃れされ苦労
していた。透明電極採用を押したのは越智さんである。

萩原提案のP+NP接合構造の受光素子の原理試作を 
Interline Transfer方式のCCDでするには工数がかかり
すぎるとの反論を萩原は受けた。

「それだけの価値があるのか」との疑問視され、許可が
降りなかった。萩原はそれでも粘り強く許可を求めた。

比較的プロセス工程が単純で短い、 Frame Transfer
方式での Test Chipでの原理試作という形で許可を
だまし、だまし、萩原は求めた。

実際は、萩原がすべて一人で、 Interline Transfer
方式のCCD Image Sensorを含めて、設計していた。

Test Chip と言えども、実際は、380H x 490V 画素の、
1 cm x 2 cm の大口径の silicon chip を設計した。

萩原は、その設計CADソフトも自前で作製して、SONYが
開発する CCD Image Sensor の設計を1人でしていた。

実は、CCD image sensor の設計自体は単純で、繰り
返しパターンが多いだけで、コンピューソフトを駆使する
事により、萩原1人で充分設計できる情報量だった。

当時、本社から岩間社長が毎月の定例会議で横浜中研を
訪問し、CCDの開発進捗会議に出席していた。

その席上で、CCD 開発責任者の越智さんは、「 CCD の
開発の遅れは、設計部隊の責任でなく、川名喜之さんが
責任者のプロセス部隊の技術の未熟さにあり、まだまだ
プロセス部隊が未熟である事が原因である。」と説明した。

これには、萩原は驚いた。責任逃れする態度だった。

透明電極を本命としたのは皆で決めた事のはずである。

その透明電極を本命とした事が最大の間違いである事に
気づく者は誰もいない状態だった。単純に責任のなすり
合い状態だった。プロセス担当者は越智さんの説明に
たいへん不満だった。しかし反論できなかった。

論点は プロセスラインの問題でなく、CCDのデバイス設計
に問題があったのに、越智さんの指摘はプロセスラインの
問題として岩間社長に報告していた。

実際、当時のSONYのCCD開発技術者の中には、CCDのデバイス
と設計をできる技術者は皆無であり、カメラシステム技術者
が今か今かと大勢が、CCD Image Sensorの完成を待っていた。

一方では、 Bipolar Process 経験技術者が、CCD Process
の開発に挑戦しているのが現状だった。MOS Porocessの経験
技術者が皆無で、さらに実際の半導体受光素子に関する半導体
デバイス物理を理解した技術者は SONY 社内では、皆無だった。

実際、CCD設計評価部隊の担当者は、もともと Bipolar
LSI設計担技術者で、電卓用デジタル回路設計担当技術者
が1人か2人いる程度だった。

またプロセスラインの技術者も、SONYの 伝統ある、もと 
Bipolar Transistor プロセスを立ち上げてきた功労者の
川名さんと加藤さんが指導する、勤勉な、Bipolar Process
経験技術者集団だった。透明電極を使わなくて済むのなら、
それに越したことはないので、プロセス担当者にはたいへん
萩原のアイデアは魅力的であった。

何事も最初は素人の集団でことが始まるが、時た立つにつれ、
それがプロ集団となっていく。幸いにも、この Bipolar Process
技術を経験した技術集団であったことが幸いする事になる。

萩原の提案する受光素子構造は、P+NPNsub接合型の受光
素子構造で、Bipolar Transistor Process以上の複雑な工程
( P-well 形成のDeep Implantation 技術など)を開発する
必要があった。

Image sensor は大きく分けて2つの部分で構成されるが、
その1つの電荷転送装置(CTD)は、CCD 型の電荷
転送装置(CTD)が有望だった。またMOSの微細化
技術が十分進化していなった時代だったからである。現在
では、周知のように、CMOS型の電荷転送装置(CTD)が
主流となり、 Image sensor は、その電荷転送方式の
名称、すなわち、CMOS型の電荷転送装置(CTD)を
採用した Image Sensor を略して、 CMOS Image Sensor
と呼ばれているが、本当に超感度で低雑音低暗電流を
実現して、陰で Image Sensor の性能を左右しているのは
その半導体受光素子構造 (photodiode)である事は、全く
半導体 Image sensor 構造の専門家以外では理解されて
いなかった。今もそうで、当時もそういう状態だった。


当時まだ新しい、CCD のデバイス構造や動作原理を理解
できた技術者は SONY 社内では皆無だった。萩原はまだ
新入社員だったが、毎日のごとく、CCD の勉強会を開催
して、先輩や上司や同僚に、CCDのデバイス構造や動作
原理をやさしく解説していた。

もともと SONY の CCD のプロセス開発部隊は MOS
技術の開発部隊出身ではなく、Bipolar Transistor プロ
セスの開発で功績のある、川名さんと加藤さんだった。

また、萩原も1971年と1973年にSONY厚木工場の 
Bipolar Process Line で実習していた。


萩原は、SONYの Bipolar Transistorのプロセスと
デバイス構造を学習し、よく理解していた。これが
幸いした。

そして、萩原に、あるアイデアが浮かんだ。

萩原にとっては、それは過去の経験からの、自然の流れ
であった。SONYの Bipolar Transistorのプロセスを
知っていたからの、当然の流れだった。

Image Sensor の受光素子構造に、従来の単純な、残像の
問題がある、N+P接合型Photodiode でもなく、また、SONY
が本命とする、白点多発で暗電流が多い、MOS型の透明電極
の受光素子構造でもない、あたらしい構造を必要としていた。

その時に、萩原にあるアイデアが浮かんだ。それは
萩原にとっては、自然の発想の流れだった。

当時、SONYの厚木工場でカラーTVの信号処理用の Bipolar
LSI chip のプロセスをもとに、新たに、 P+NPNsub型の 
Bipoalr Transistor構造を、 Image Sensor の受光素子構造
として採用するという、新しいアイデアだった。


透明電極を採用して受光素子構造では、なかなか、キズの
ない良品チップを製造する事ができなかった。CCDの設計を
担当していた萩原は、白点が多発し、暗電流が多い、量産性
に乏しい、透明電極を受光素子として採用する事に将来性が
ないのではと疑問を持つようになった。MOS型電極をなくせば、
短波長感度は向上するし暗電流が減少するのは誰でも理解
できることだった。

萩原のアイデアは、プロセス担当の技術者にも魅力的だった。
透明電極を使わないという事は大変魅力的だった。当時、
川名さんの部下の、狩野課長、阿部元昭係長はたいへん
萩原に協力的だった。しかし、CCD開発部隊の最高責任者の
越智さんは大反対だった。その論理は単純だった。しかし、
間違った論理だった。

「もうすでに、SONYとしてカメラ事業部を含めて、透明電極
を本命している中、方針は変更できない。透明電極はすでに
Two Chip 構成だが良品がとれて、商品化している。」との
主張だった。

岩間社長への越智さんの説明は、「CCDの設計部隊には非はない。
すべてプロセスラインが頑張ってくれれば成功します。」との
説明だった。これは完全に責任逃れする発言で、萩原も当時の
プロセス担当責任者も不満顔だった。

実際に透明電極を採用してICX008のsiliocn ship の設計と評価
は中研の情報処理研究室が担当していた。しかし、その chipの
設計評価担当は2名だけで、残りの舞台はカメラシステム技術
者だった。実際、CCD chip の設計者は萩原1人だった。

CCD chip の設計は、画素数が多くても、繰り返しパターン
で coding が可能で、出力部が単純な MOS source follower
回路で充分で、設計dataは1人の技術者で十分取り扱えるもの
だった。また、そのCCD評価を担当したのは粂沢哲郎さん1人
だった。2人で設計評価を担当していた。

2人は、ICX008の特性の悪さを充分理解していた。

2人は、設計して評価したが、粂沢さんも萩原も、「これは
だめだなあ。困った、困った。」と実験評価室で語っていた。

そんな中、萩原考案の Bipoalr Transistor 構造の受光
素子の発明は、プロセス担当者にとっても魅了的だった。

萩原がアイデアを説明すると、プロセス部隊の技術者の、
狩野課長も安藤課長も阿部係長も松本係長もたいへん
好意的だった。しかし、情報処理研究室の、設計側の萩原の
上司の越智課長は否定的だった。その時、萩原の直属の上司
だった山崎係長が一言「おもしろいからやらせて見ましょう。」
と言ってくれました。それで、話が一転しましった。

萩原の考案のBipolar Transistor型の 受光素子構造の原理
試作の許可が承認されました。越智さんの条件は、「本命の
透明電極の開発の邪魔をしない事、萩原がすべて自分でライン
に入り  Process Operator として実習作業をすることなら
許可してもいい。」との冷たい態度だった。

しかし、幸いにも、萩原はすでに、1971年と1973年に
SONY厚木工場のプロセスラインの実習生としての経験があった。

Bipolar IC の信頼性評価実習を受けていて、実際に CCD の
プロセスラインも Bipolar Transistor のプロセスラインの
延長として、自然に 萩原は、CCDのプロセスラインに溶け
込んで、新しい受光素子の試作を敢行することが出来た。


萩原の考案した受光素子構造は次の様なものである。

透明電極の代わり、萩原はまず、受光部を、酸化膜界面から
隔離保護された埋め込み型のPhotodiode を考案した。

(1)これは、埋め込みPhotodiode の発明だった。

そして、さらに、CCD電荷転送方式と同様に、完全
空乏化電荷転送を可能とする、薄い埋め込み層を
受光部電荷蓄積部とすることを考案した。

(2)これは空乏化Photodiodeの発明だった。

そして、さらに、受光面はそのまま、ガラス質の酸化膜
として、そのシリコン表面には、濃い、Majory Carrier
の Accumulaton 層となり、電圧が固定、ピン留め
された Photodiode とすることを考案した。

SONY Hole Accumulation の基本特許である。

その事については、SONYは、まったく、萩原がその発明者で
あることを、社外に公開していない。社内で、萩原がこの発明
で特許表彰一級を受賞している事実があるが、会社として、
SONY だけではないが、発明者個人を社外で賞賛する慣例
は日本の企業には一般に全くないのが現実か?日本企業では
発明者は「使い殺しの寂しい思い」をしている場合が多い(大涙)。

SONY としては、今さら、その発明の優先性を主張しても、
特許使用料を請求されない限り、無視することが企業として
可能である。利益追求企業として当然の態度である。まったく、
HADセンサーの発明者の萩原を弁護する必要が全くなく、
これは冷酷な企業の実態でもある。すでに特許は1975年
出願のもので、充分SONYとしては、その特許を武器に、SONY
HADを商品登録して、充分利益を獲得しており、今さら、発明者
がだれであろうが、関係ない。今は、特許効力期限も切れ、
世界の企業が、人類の財産として、自由に使う事が可能である。
今さら、発明者が萩原であろうが、他に「詐欺行為」で偽り、
発明を主張する者が現れても、SONYの今後のビジネスに
影響を与えるものでないのも事実である。しかし、モラル上
それで企業は許されるものか、萩原は疑問に感じている。

米国の企業の IBM 、Intel 社、Ti 社ならもっと自社の特許の
発明者を保護し、その名誉を守っているが、SONYはやはり
一般の日本企業に過ぎないのかも知れない。これでは SONY
の将来も疑問に感じる。技術のSONYがいつのまにか消えて
いく感じてして寂しい思いとなる。


技術者を使い殺しにする、日本半導体産業の風潮が、日本の
半導体産業をここまで衰えた理由ではないかと感じる。

(3)萩原の1975年の発明は Pinned Photodiodeの発明でもあった。

もとSONYの萩原がこの3つの種類のPhotodiodeの発明者である
証拠は、萩原が1975年に出願した、3件の日本国特許そのものが、
その証拠である。 

See Japanese Patent 1975-127646 , 1975-127647 and 1975-134985


(4)萩原は、1975-127646 特許では、In-Pixell Global Shutter機能を発明。

    Bipolar Transistor 型の電荷転送ゲートを考案し、
    そのゲートを通して電荷を転送し、表面のMOS電極容量を
    信号電荷の一時蓄積用容量とする、すなわち、
    一時 Buffer Memory 容量として活用する、
    裏面照射型の Global Shutter機能を考案し、
    各絵素にその構造が組み込まれた受光素子構造
    ( Buried Photodiode )を発明している。

(5)萩原は、1975-127647 特許では、完全空乏化 Photodiodeを発明。

    この特許の実施図からも明らかな様に、信号電荷が、
    完全空乏化電荷転送されていて、残像のない画像を
    この受光素子構造 (Depletion Photodiode)が提供
    することが明示されている。

(6)さらに、萩原は、1975-134985特許では、P+NPNsub接型の
   サイリスタ構造で、縦型 Overflow Drain (VOD)が
   組み込まれた、Pinned Photodiode を発明している。


萩原はこの特許で安藤社長より社内で発明特許第1級を受賞している。



Pinned Photodiode は、必然的に、Depletion Photodiodeでも
あり、かつ、必然的に、Buried Photodiodeでもある。

(1)従って萩原は、埋め込み型 Photodiodeの発明者である。
(2)かつ萩原は、Depletion Photodiodeの発明者でもあり
(3)萩原は、さらに、Pinned Photodiodeの発明者でもある。
(4)また、Global Shutterの発明者でもあり、
(5)かつ、裏面照射型の Pinned Photodiodeの発明者でもある
(6)また、縦型OverflowDrain (VOD)の発明者でもある。

この縦型Overflow Drain (VOD) をヒントに萩原はさらに

(7)別件特許 1977-128885 特許では、電子シャッター機能を
  発明している。萩原はこの特許でも出井社長より、SONY
  社内で最優秀特許表彰を受けている。




このことは、国際社会では現在でも全く周知徹底されていない。
ITIC型のDRAMの基本特許と同様で、特許出願が日本国内
だけで申請されていて、海外特許の申請が皆無で、国際社会
ではまったち認知されていないのが現状であることが最大の
問題である。早急にこの事を英文の形で広く公開する必要を
萩原は強く感じています。まずは、日本語の通じる、発明協会
の専門委員の方々と、日本の半導体デバイス物理の見識者
の間でこの事実が情報シェアされることを切に希望します。









日本半導体産業人協会(SSIS)の教育委員会委員として
 奉仕しています。また、春と秋に開催の半導体技術講座で、
  「イメージセンサー賢い目」の講師として奉仕しています。


萩原は現在、日本半導体産業人協会の教育委員会の委員として

奉仕し、日本半導体産業人協会主催の春と秋の半導体講座の

イメージセンサー「賢い電子の目」のカラムの講師をしています。


日本発明協会では、日本の半導体産業に貢献した、いろいろな

特許発明者の業績をたたえて、その内容をWEBサイトで紹介

しています。

次のWEBサイトを閲覧してください。

http://koueki.jiii.or.jp/innovation100/innovation_detail.php?eid=00059&test=open&age=


萩原は、日本のイメージセンサーに寄与した著名人の業績とその

技術内容を、日本半導体産業人協会主催の春と秋の半導体講座

のイメージセンサー「賢い電子の目」のカラムで紹介したいと考え

ました。そのWEBサイトには以下の内容が掲載されています。


その内容を見て、萩原は驚きました。たいへん事実誤認も、はな

はだしく、事実とは異なる、たいへん間違った記述となっているのに

萩原は気づきました。これでは一般素人さんも、だまされて当然です。


その詳細は、半導体デバイス物理の専門家でないと、なかなか、

その間違いに気づくことは、大変難しいものでした(大涙)。





萩原が最初にSONYで手がけたもので、その8番目が完成し、商品化された、 
ICX008 のチップ写真が、この発明協会の WEB サイトで掲載されているのを
見て、萩原は大喜びでした。

発明協会のWEBサイトに、「SONYのご好意で掲載」されています。

萩原がまだ、1975年代後半、SONY中研時代現役の技術者だった時です。

当時はSONYの横浜中研の開発研究者も10人程度の部隊でした。

その部隊の中で、萩原1人でCCD Image Sensorを設計し、同僚の粂沢哲郎さんも
一人でその評価を担当していました。一方、プロセスデバイス開発部隊と、カメラ
システムの部隊は大所帯でした。半導体デバイス物理専門の科学者は皆無でした。

萩原は教育係として、CCD部隊の開発メンバーに「萩原教室」を開催し、半導体
デバイス物理と Image Sesnorの動作原理について先輩後輩を問わず社内教育
係りとして奉仕しました。その仕事は、1975年萩原がSONYに入社してすぐ始まり
CCDの事業化が進むにつれ、どんどん若手社員が増え、萩原が2008年に60歳
定年退職するまで続きました。萩原にとってもたいへん楽しい思い出となりました。

その、Interline Transfer CCD 電荷転送方式の Image Sensor  の8番目の試作品
の ICX008 が完成し、SONYで初めての、日本で初めての、 CCD Image Sensor
の商品化が実現しました。その写真が日本の Image Sensor の開発史として、発明
協会のWEBサイトに記載されていて、萩原はたいへん喜びました。

萩原が1975年入社時からずっと親しくお付き合いしていた、同じ歳の同僚ですが、
去年11月に亡くなられた、粂沢哲郎さんと二人だけでした思い出の仕事でした。
当時10人程度の開発部隊の中で、SONYの中央研究所の吉田博文さんが室長の
情報処理研究室で、CCDの設計と評価の部分を担当した、思い出の仕事でした。

CCDは繰り返しが多く、その Chip 設計は数人でできる時代でした。ただし、その
Fabrication Processは、たいへん複雑で、多数のプロセスデバイス技術者と設備
投資を必要としていました。そんな中で SONYは、日本で初めて Stepper方式
のパーキングエルマ露光機と高エネルギーイオン打ち込み装置をいち早く購入。

SONYの最優先の開発事業化課題として、岩間社長の陣頭指揮のもと開発事業化
を進めていました。SONYはその結果SONY独自の、超感度で低雑音の、半導体
受光素子 (SONY HAD センサー)を発明し、それをCCD型電荷転送方式の 
Image Sensor に採用して、Image Sesnor の世界市場を制覇する事になりました。

世界は、それを CCDカメラが超感度低雑音と誤解しました。CCD自身は金属
電極があり、光感度が悪く、色再現も乏しく、短波長の光はCCD型の受光素子
ではたいへん悪い特性でした。また、MOS電極型で、表面に強い電界が生じ
暗電流が多く、CCD型の受光素子は全く使いものになりませんでした。それで
SONYは半導体受光素子として、超感度で低雑音のSONY HADセンサーを
考案し、独自路線で、その独創的な構造で、世界中の企業の追従をはばみ
ました。しかし、その重要な記述が発明協会のWEBサイトには全くありません?


いまは、SONYのHADセンサーは世界中の主力ビデオカメラとして知名度があり、
多くの知識人が知っている名称ですが、しかし、その重要な記述が発明協会の
WEBサイトには全くありません?これにはSONYもその発明者の萩原もたいへん
さびしい思いでいます。






SONYのHADセンサーは、Hole Accumulation Diode の略ですが、表面にP+
の濃い層が、電極との self align で ion implantation 技術で形成されます。
そのP+層は外部電圧(基板電圧)で固定、すなわち、電圧の値がピンどめ
されています。


萩原が1975年特許で考案した、半導体受光素子構造は、単純に 
基板(Nsub)にP+NP接合型トランジスタ―を半導体受光素子として
使うという、単純な発明特許でした。単純な、P+NPNsub接合構造の
受光素子であり、一般人向けにPRできる名称はありませんでした。

萩原が1975年特許で考案したその半導体受光素子構造に似た構造
をNECが 1982年のIEDM の学会で発表しました。 その時、Buried 
Photodiode と別名で呼び、NECは1982年のIEDM の学会で、あたかも
自分たちが最初に発明した様な印象を世界に与える発表をしました。

萩原の1975年特許は1978年のその原理試作の学会発表の引用
は全くありませんでした。同じ日本人同士なのに、会社がライバル関係
にあり、その政治がからむ話なのか、しかし、純粋の技術者としては、
非常に国際エチケット欠如のやり方でした。それで国際社会では、まず、
Buried Photodiode という名称が一般学術用語となりました。Buried
Photodidoe は NECがつけた名称ですが、それはSONYの発明でした。
その引用はまったくなく、たいへん技術者のやる事としては、エチケット
が欠如した、社会倫理のない、詐欺行為ではなかったかと、今は萩原
は残念に思っています。そう歴史認識する方々も、増加しています。


さらに、翌年の 1983年のIEDMの論文の中では、Pinned Photodiode と
いう別名で KODAK社が、SONYの萩原が1975年特許で考案した半導体
受光素子構造に似た構造を、再び発表しました。しかし、KODAK社は、
自社の独創性をアピールする為に Pinned Photodiode という名称を
使いました。あたかも、KODAKがその半導体受光素子を発明した印象を
国際学会で与えました。しかし、その構造もSONYの萩原の発明でした。
その引用はまったくなく、たいへん技術者のやる事としては、エチケット
が欠如した、社会倫理のない、詐欺行為ではなかったかと、今は萩原
は残念に思っています。そう歴史認識する方々も、増加しています。


その証拠になるのが、権威ある日本国特許です。特許庁のWEBサイト
にはいまでも この重要なSONYの萩原が1975年に発明した特許が
そのまま掲載されています。それが証拠です。NECの埋め込み型の
Photodiode も KODAK社のBuried Photodiode も萩原の発明である
事の証拠です。NECもKODAK社だけでなくFaiuchild社など世界の
大企業が後に萩原の1975年発明の特許を攻撃して大きな特許
戦争になりました。萩原にとってはたいへんな悲劇の幕開けでした。


実は、NECやKODAK社の前に、ヨーロッパのフィリップ社も、SONY
の萩原の1975年の発明には遅れますが、萩原考案の半導体受光
素子に似た構造を学会発表しています。


当時、フィリップ社で ImageSensor の 現在世界的 Image Sesnor
の権威者で、Delft 大学の教授でもある Prof. Albert Theuwissen
 
Pinned Photodiodeの最初のアイデアの発明者は、
SONYの萩原(1978)であり、その次が、フィリップ社の 
Beck (1982)であり、その後、同じ年の12月に、
NECの寺西(1982)であり、最後が当然一番完成した
形で、KODAK社(1983)だ、と断定しています。





そして萩原の1978年の学会発表がすべての Pinned
Photodiode の 母体( Mother ) だと、彼の論文

http://harvestimaging.com/pubdocs/089_2005_dec_IEDM_hole_role.pdf

で、 Prof. Albert Theuwissenは 断定しています。以下の様にコメント

しています。この萩原の1978年の学会発表論文[2] が、現在のImage
Sesnorに採用されている半導体受光素子(Photodiode) の母体(mother)
最初の発明ではないかと賞賛していただいています。

A simple self-aligned implant of 2x1013 /cm2 boron ions is sufficient
to extend the channel stop areas to the gate edge and consequently
fix the potential in the open areas [2]. The result p-Si substrate n-Si
channel p+-Si stopper SiO2 poly-Si gatep-Si well n-Si channel p+-Si
stopper SiO2 poly-Si gate n-Si substrate after this self-aligned implant
is shown in Figure 3. The presence of enough holes plays a crucial role
in fixing the potential for the regions “beyond control” of the gates.
(Is this structure the mother of the pinned-photodiode or buried diode
or hole-accumulation device ?)


この IEDM2005の招待論文で、

"the mother of the pinned-photodiode

or buried diode or hole-accumulation device"

と コメントしています。

しかし、NECの IDEM1982年での Buried Photodiode
の論文にも、続いて翌年の、KODAKの IEDM1983での
Pinned Photodiode の論文でも、萩原が1978年の
国際会議で発表したP+NP接合型受光素子に関する
引用は全くありません。これはたいへん Unfairな
行為で、今から思うと、世の中をだまず詐欺行為として
決して許されるものではありませんでした。その事を
Prof. Albert Theuwissen は間接的に指摘しています

さらに萩原はもう一人の詐欺師に攻撃を2014年に受けています。
Eric Fossumの Fake 論文です。その中で、Fossum は SONYの
萩原の1975年の発明は、受光部が完全電荷転送していない受光
構造だと嘘の発言をしています。萩原の日本国特許の実施図を
まったく無視した、間違ったコメントで世界をだましています。

その論文を信じた、「世の中の素人さん」が Fossum とNECの寺西さん
の2人を、今の CMOS Image Sensorの発明者で開発者であると、
嘘の発言をして、王室のQueen Elizabeth Engineering Prizeに推薦し、
Fossum と 寺西さんは、賞金が一億円とも言われる賞を受賞しました。

本当の Modern CMOS Active Pixell を発明し開発したのは、Fossum
ではなく、もと、英国プレクシー社の Peter Noble 氏であり、その半導
体受光素子(Pinned Photodiode)の発明者は、NECの寺西さんではなく、
SONYの萩原です。このたいへんな誤解がそのままになっています。 


これには、70歳の萩原も 80歳にもあるNobleさんもびっくりしました。
もう学会活動もせず引退して日々を過ごしており、新しい世代の方々が
国際学会を運営しており、彼らには全く過去の開発背景を知りません。


萩原の1975年出願の日本国特許にはさらに詳しい内容を詳細に定義
されている事実は、国際社会には一般に開示されていませんでした。

しかし、SONYのライバル会社のNECやKODACKは、SONYの萩原の
日本国特許を見逃すことはありません。戦略的にわざと無視したのです。

特許は読めばだれでも専門家ならすぐわかります。、その構造が、
Pinned Photodiodeの発明であり、Buried Photodiodeの発明であり、
SONY HADの発明である事は明白です。しかし、その事実は全く
国際社会の一般人、事務系の方々には、現時点でもまったく知られて
いない状態のままです。今、萩原の知人から、英文の学会誌に投稿
して、その事実を報告すべきという声をあり、萩原は現在準備中です。

今のところ、国際社会への窓口はあくまで萩原の1978年の東京で
開催の国際半導体固体素子コンフェレンスでの英語での発表とその
Japanese Apllied Physics Journal での英文掲載論文 だけが光です。
 






まず、日本国特許の検索サイト 

https://www.j-platpat.inpit.go.jp/

を訪問してください。

そして、まず、「特許・実用新案」の項目にマークを入れて下さい。

そして、その下の、 例2)2019-00012X  とある欄に、 
1975-134985 または1975-127647 等と 特許登録番号を
入力してくだい。その特許の原紙(PDF)が入手できます。












まず、 Image Sensor 「電子の目」の基本構造の説明です。

大きくわけて Image Sensorは 2つの部分に分類されます。

その1つは、光信号を電気信号に変換する、半導体受光素子
(Photodiode)と呼ばれるものです。

もう1つは、その電気信号となる信号電荷を転送する「運び屋さん」
の仕事をする、電荷転送装置(Charge Transfer Device = CTD)
と呼ばれるものです。

  ●1つは、半導体受光素子(Photodiode)です。

    人間の目の網膜細胞に対応し、眼球に入った
     光信号を電気信号に変換する組織です。
         
    
  ●もう1つは、電荷転送装置(Charge Transfer Device)です。

      その電気信号(signal charge)を脳に伝達する
      運び屋さんです。

      運び屋には CCD 方式と CMOS 方式があります。


この運び屋さんが、昔は CCD 型の電荷転送装置でした。

超感度CCD Image Sensor とか 超感度CCDカメラとして
愛用されていました。しかし本当に超感度なのはCCDでも
CMOSでもありません。人間の目の網膜細胞の働きをする
半導体受光素子(Photodiode)の発明があったからです。

萩原が1975年に発明したのがこの超感度な半導体受光
素子(Photodiode)でした。現在では、SONY HADセンサー
または、世間一般に、Pinned Photodiode とよばれる半導体
受光素子です。

その基本特許は残念ながら日本国特許のみ出願され、その
詳細は今まで国際社会でも、SONY社内でも知られる事は
ありませんでした。それがたいへんな誤解を招いています。

発明者がまったく違う人と誤解されています。

その原因をつくったのは、当時のSONYの戦略でした。特許
には Knowhow があり、他社の追従を恐れ、あまり詳細に
特許の技術内容を積極的に公開する事を禁じていました。

案の定、SONYがCCDのビジネスで成功し始めると、多くの
ライバル企業から、そのCCD Image Sensor の製造方法で
多額の特許料の請求をSONYは受けることになりました。

その額は1990年代時点でSONYのImage Sensor の事業
収益の累計のほんの一部としても、その特許使用料は、
600憶円から800億円と言われる膨大な額でした。もう
この1975年の基本特許の有効期限は終了していますが
その延命派生特許も含めると膨大な金額となります。


その中で、萩原1975年発明のPinned Photodiode の発明
特許が、他社からの最大の攻撃対象となりました。

萩原はそれで会社の中で、牢獄に入れられた感じでした。

負ければ、SONYの Image Sensor のビジネスの将来は
ありません。特許の存在は常に企業の存亡に影響します。

社内では、「萩原がちゃんとした特許を申請しなかったのが、
大問題だ。SONYに迷惑をかけたあやふやな特許を出した。
いつも上司の経営判断に対して文句を言い、立てついて、
生意気な、けんかぽい、新入り技術者だ。」等と、陰口を
たたかれていました。

もし特許裁判で負けていたら、いや負けていなくても、
その時点でも、「それ見ろ!」と社内でも、冷たくあざ
笑われる存在でした。非常に居心地悪い存在でした。

萩原は必死でした。SONYのためというより、むしろ、
その特許の発明者として、自分の名誉のために、
他社との、食うか、食われるかの、汚い泥沼の、
醜いお金の戦争でしたが、その企業間の特許戦争
に、一人の兵隊として、巻き込まれてしまいました。

しかし、何事も、結果良ければ、すべて良しです。

最終的に、萩原の尽力は、SONYの Image Sensor
ビジネスを守る事ができました。

今のSONYの半導体ビジネスを救いました。

萩原は、もともと、1974年の石油ショックの大不況の
中、岩間社長のHEAD HUNTINGで特別入社した若い
技術者でした。1975年度のSONYの新入社員総数は
たったの15名でした。萩原は、だれにへつらう事もなく、
自由でした。その天真爛漫(?)な萩原の姿を良いとは
思わない先輩や上司がいても当然です。

しかし、それでも理解者もいて、萩原は少数の理解者に
守られていました。その方々のお蔭で萩原は守られて
生き残りました。

1975年、萩原は新入社員としてSONY中研に即配属
された時、SONY中央研究所では、透明電極を採用した
受光素子構造を本命としていました。実際には暗電流が
多く、白点多発でプロセス担当者はたいへん苦労して
いました。萩原自身はその開発部隊の1人の一員にすぎ
ない存在でした。

しかし、萩原には、アイデアがありました。萩原自身が
考案した、P+NPNsub接合型 Pinned Photodiode の受光
素子を本命として採用してほしいと、1人主張しました。

たいへん勇気のいる発言でした。当時のCCD開発の最高
責任者で、上司の越智課長にお願いしました。デジタル
回路の設計出身者で、まったく半導体デバイス物理の
予備知識に乏しく、理解されませんでした。越智さん
にはその重要性が理解できませんでした。


それ以前に、萩原は、上司の越智さんと別件で張り合っ
ていました。上司に萩原は食いついていました。

越智さん発明の市松方式のCCD Imager に対して疑問
を感じ、Image Sensor の解像度(MTF)の解析をして
「無駄な開発努力で効果はあまり期待できないようです」
との結論を出した技術報告書を提出していました。

越智さんの努力を、部下のくせに否定した事になりました。

これには、上司として越智さんが怒るのも無理はなかった
と思います

その感情的な災いもあって、越智さんは逆に萩原
の発明を無駄な努力だと無視しました。しかし、
山崎係長に守られ、萩原に特許の出願許可だけは
下りました。しかし、日本国どまりでした。海外特許
を出す重要性は、誰も認めてもらえませんでした。

萩原はSONY本社社長の岩間社長のHead Hunting
で特例的に入社できた事もあり、岩間社長がCCDの
開発現場を視察しに来られた時に、直接、萩原の
アイデアを岩間社長に説明する機会を得ました。

岩間さんは東大の理系物理学部出身です。歴史ある、
SONYのトランジスタ開発史の半導体技術開発者でも
あった方で、半導体デバイス物理の事はよくご理解
されていました。

簡単に「おもしろい」と許可をもらい、萩原考案の
P+NPNsub接合型 Pinned Photodiode の受光素子
を採用した Frame Transfer 方式のOne Chip Image
Sensor を開発試作することが可能となりました。


1980年7月1日には、SONYは萩原が開発した、
CCD ImageSensor を使って、8mmサイズのビデオ
録画機との一体化の小型ビデオカメラを新聞発表
されました。東京では岩間社長が、New York では 
盛田会長が、同日に大きく、Press Conference を
開催し、多くの新聞記者や雑誌記者を招き、SONYの
Home Videoの時代の到来を強くアピールしました。


SONYにとって歴史的な瞬間でした。




この時、SONYは、「超感度 CCDカメラ」として新聞発表しました。

しかし、本当は、超感度なのは、CCDではありません。


萩原1975年発明の人間の目の網膜細胞の役割をする、
半導体受光素子の発明、Pinned Photodiode でした。

SONYでは、 Hole Accumulation Diode (SONY HAD)と
呼ばれるものです。SONYのブランド名となりました。

それが超感度だったのです。

その事は、SONYの技術者を含めて、あまり半導体
デバイス物理を理解した人はおらず、たいへんな
誤解を生みました。萩原の発明と開発努力は全く
評価される事はありませんでした。

逆に、「既存技術を使って8mmカメラを創った」と
いう越智さんの発言でした。

越智さんの組織がした仕事として片づけられ、SONY
では 開発責任者の越智さんと、後にその実績で
副社長にもなった、森尾副社長の成果として、認知
されました。お二人は、名誉ある Eduard Rhein 賞
を受賞しました。

実際にSONYで開発を担当した技術は、まったく賞の
対象とされず、会社組織の長がピンはねした形でした。

一方の日立も、MOS Image Sensorを採用したビデオ
カメラを開発し新聞発表していました。SONYと一緒に
Eduard Rhein 賞を受賞しました。しかし、日立側の
受賞者は組織のTOPではありませんでした。実際に
その技術開発を担当した、久保征治さんをはじめその
開発技術者が受賞者でした。


この違いには、萩原も当時の開発を手伝ってくれたいた、
CCDカメラシステム担当だった、山中さん、西村さん、名雲
さん、島田さんたち先輩も、がっかり、あきれる限りでした。


さらに、SONYは 「超感度はCCDによるもの」とマスコミへ
の説明でした。CCDでは色再現も暗電流も多くトラップ
雑音も多く、これは「嘘の発言」でしたが、それを見抜く
技術者はだれもいませんでした。

萩原発明の受光素子構造の説明やPRは全く皆無でした。

成果はそのためにすべて、上司の越智さんに集中しました。

そして、CCDは SONYが育てて、世界に英雄となりました。

超感度であると誤解され、ノーベル賞までもらう事になりました。
これには、萩原はさびしい思いでした。死にかけてだれも相手
にしなかった、CCD技術をSONYは、萩原の1975年の発明で
生き返らせたのです。その事はまったく忘れ去られていました。


近年になり、CCDはお役御免となりました。

今まで SONY のビジネスにたいへん貢献した意味は大きい
でした。しかし本当の英雄はその陰にありました。CMOS
プロセスの微細化技術が進化し、ついに消費電力が大きい
CCDの化けの皮がやっとはげた感じです。CCDは遂にCMOS
技術に追いつかれ、CMOS技術が勝者となりました。

そしてその陰にいた、萩原発明の超感度半導体受光素子の
存在が重要視される事になりました。

本当は、SONYのHAD Sesnorとして評価されるべきものですが、
SONY HADはあくまで商標であり、その足かせもあり、SONY 
HADは、一般、技術学会では評価される機会がまったく与えら
れる事はありませんでした。

学会では、Pinned Photodiode と別名で呼ばれ、
SONY HAD Sensor とは全くの別物扱いとされました。

さらに、特許戦争で負けた他社の技術者は、意識して、
SONY HADの名称は使用しません。KODAKをはじめ、
多くの企業は、Pinned Photodiodeと呼びました。

その結果、SONYのHADとは全く違うものだと言う印象を
一般社会に与える事となりました。


SONYの戦略もSONYのHADは SONY ORIGINAL で
独創的でSONY独自という戦略を貫いていました。

これがまた大問題でした。

学会でも新しい世代の技術者でも、Pinned Photodiodeと
SONY HAD が同一構造であることを理解している若い
技術者がほとんど皆無となりました。逆にSONY社内の
CCD関連技術者は井戸の中の蛙となり、自分たちのHAD
センサーは知っていても、世の中でそれが完全に無視され
Pinned Photodiode と呼ばれていることも知りませんでした。

萩原自身も SONY HAD sensor と Pinned Photodiode
が同じものだと知ったのつい最近で、去年の6月の事でした。


超高感度を提供していた、本当の英雄は、萩原1975年発明
の超感度半導体受光素子のPinned Photo Diode でした。

1975年の発明で、その最初の原理試作の発表は
1978年に公開されました。

実際には、CCDは消費電力が大きく、また電荷転送の能力にも
限界があり、アナログテレビの時代では使えましたが、もはや
高解像のハイビジョンテレビの画素数には利用できない限界
があり今は Image Sensor の市場から完全に消えました。

昔は、CCD カメラがちやほやされましたが、今は CMOS 
カメラの方がより性能も感度もよい時代となりました。


しかし、本当の性能と感度を決めていたのは、CCDの時代
から、CCDやCMOSではなく、光を最初に電気信号に変換
する半導体受光素子、すなわち、Phorodiode の働きが
あったからです。

半導体受光素子は、人間の目でいうと、目の網膜細胞の
対応します。網膜細胞の働きがあるから、人間は目でものが
見えるのです。その網膜細胞、「電子の目」の発明があった
からです。

このことがまったく理解されず、萩原はたいへん寂しい思いで
SONYの会社人生を歩んでいました。さらに、企業間の大きな
特許戦争に1人の兵隊として巻き込まれ、たいへん悲惨な
会社人生でした。しかし、結果良ければ、すべて良しです。

今から見ると、たいへん楽しい、理解者も多く、たくさんの
人々に守られ、萩原は、1975年にSONYに入社し、33年間、
SONYに奉仕し、2008年に定年退職するまで、頑張れました。



その網膜細胞にあたる「電子の目」の構造を発明したのはもとSONYの萩原です。

SONYは、萩原発明の「電子の目」を、SONY HAD センサーと呼び、Image
Sensorの市場を独占しました。この「電子の目」には、高速アクション映像を
可能にする、電子シャッター機能も装備されています。「電子のまぶた」です。

萩原は同時にこの電子シャッターを考案発明しています。

これが他社を引き離し、SONYは ImageSensor 市場を制覇する大きな力に
なりました。


SONYは Bipolar Processにより培われた製造技術と萩原の発明による
独創的なデバイス技術が融合してイメージセンサーのビジネスの成功へ
と導くことができました。製造技術だけでは単純な猿まねになります。

CCDのプロセス・デバイスに、独創的なアイデアが入って、はじめて、
他社との競争力がつきます。SONYはいち早く、受光部の P-well 形成
の為に、High Energy Implantation装置を CCDのプロセス製造技術に
導入しました。

これがさらにデバイスの白点や暗電流の抑制を可能にしました。

SONYのプロセス技術とデバイス技術が融合して、はじめてイメージセンサー
のビジネスの成功を勝ち取ることができました。

この装置の導入に気づかない会社は、イメージセンサーのビジネスから
撤退を余儀なくされました。

萩原のデバイス構造のアイデアだけでなく、信頼性と量産生産技術を
意識した、勤勉な半導体プロセス技術者の努力があった事が、SONYの
最大の成功の鍵だったと思います。





日本国特許の検索サイト 

https://www.j-platpat.inpit.go.jp/

を訪問してください。

そして、まず、「特許・実用新案」の項目にマークを入れて下さい。

そして、その下の、 例2)2019-00012X  とある欄に、 
1975-134985 または1975-127647 等と 特許登録番号を
入力してくだい。その特許の原紙(PDF)が入手できます。


萩原が関係する特許はたくさんありますが、ここでたいへん関係する
萩原単独発明の日本国特許は、次3つの日本国特許となります。




(1) 特許1975-127646 発明者 萩原良昭(単独)

  NPN接合型の「埋め込み Photodiode」 の基本構造特許です。

  NPN接合型の「Pinned Photodiode」 の基本構造特許でもあります。

  萩原が「埋め込みPhotodiode」の発明者である事の証拠となります。



  P+NP接合型  bipolar Transistorを 電荷転送用の
  gating (CTG)として使用したもので、かつ、各絵素
  ごとに、表面型NMOS容量を一時記憶用 Buffer Memory
  として使った、世界初の Global Shutter 機能付のもので、
  かつ、裏面照射型でもある、NPN接合型の埋め込み 
  Photodiode の基本構造特許です。超感度ビデオカメラが
  この裏面照射型の半導体受光構造で、実現可能となります。
  主面照射型と比較して、受光窓面積が大きく取れます。



(2) 特許1975-127646 発明者 萩原良昭(単独)

  NPN接合型の「空乏化 Photodiode」 の基本構造特許です。
 
 NPN接合型の「Pinned Photodiode」 の基本構造特許でもあります。

  萩原が「空乏化Photodiode」の発明者である事の証拠となります。




  またこれは、「埋め込み Photodiode」の基本構造特許でもあり、
  「Pinned Photodiode」の基本構造特許でもあり、またさらに、
  「空乏化Photodiode」の基本動作を明示した発明でもあります。


  P+NP接合型の「埋め込み Photodiode」 でもありますが、
  各絵素ごとに配置された、表面型NMOS容量を一時記憶用 
  Buffer Memory として、電荷転送ゲート(CTG)なしでも、
  埋め込みP層の電荷(e+)を表面電極に強いマイナスの電圧
  を印加することにより、電荷を完全に吸い取り、電荷
  蓄積部のP層を完全に空乏化することを特許としたものです。
  これは世界で初めての「空乏化 Photodiode」の発明特許です。
  この完全空乏化動作により、残像のない映像が可能となり、
  高速アクションカメラが実現します。高速でいろいろな動く
  物体の瞬間映像を高解像度ではっきりと映し出す事が可能です。




(3) 特許1975-134985 発明者 萩原良昭(単独)

  P+NPNsub 接合型の「Pinned Photodide」の基本構造特許です。
   
  またこれは、「埋め込み Photodiode」の基本特許でもあり、
  「空乏化Photodiode」の基本動作を明示した発明でもあります。







  基本的な考えは、P+NP接合型の Bipoalr Transitor を Dynamic
  動作させて、base 領域を floating 状態にして、そこに蓄積
  された信号電荷を隣接する電荷転送装置(CTD)に完全空乏化
  転送するというアイデアです。

  さらに、P+NPNsub 接合型のサイリスタ―構造でもあり、
  サイリスタ―の複雑な動作も期待でき、その1つが 
  Punch Thru 動作を利用した、縦型の overflow drain (VOD) 
  機能となります。

  実施例にはわざと、表面のP+層が充分濃い、Hole Accumulation
  層があり、金属性の外部オーミック・コンタクトが可能な事を提示し、
  表面電圧が固定、すなわち、ピン留め(Pinned)された状態である
  ことを明示しています。

  これが Pinned Photodiodeの語源です。

  この表面をピン留めする事はたいへん重要なことで、表面に
  電界がなく、表面暗電流が発生しない、非常に暗電流ムラや
  雑音がなく、白点の発生を抑止し、chip の歩留まりが向上します。

  また、表面の捕獲順位(trap state)を不活性化(quenching)して、
  1/f 雑音の発生も抑止し、たいへん低雑音の映像を提供します。

  かつ、縦型 Overflow Drain (VOD)の発明特許でもあります。
  横型 Overflow Drain 構造と比較して、受光窓面積が大きく取れます。


この特許の価値は膨大です。SONYが他社からの特許戦争の攻撃を受けた
時、萩原のこの特許はSONYを守りました。萩原はSONYのビジネスを
守ってきました。この萩原の特許のお蔭で、SONYは他社からの膨大な
特許料の請求額、1990年代の金額で600億円から800億円にも
なる、他社からの特許料の請求から、萩原は、SONYを守りました。

この特許はたいへん重要な特許で、米国 Fairchild 社や KODAK社や
日本の大手半導体メーカーの日電からも、「自分の会社が最初に発明した
のだ!」と主張され、SONYはたいへん苦しめられました。膨大な特許使用料
を請求され、特許裁判に負ければ、イメージセンサーのビジネスからの撤退
の危険もありました。攻撃されたのは、萩原の1975年出願特許でした。

1990年初頭にはじまり、その集結を2000年に迎えるまで10年以上萩原は
SONYでの会社生活でたいへん不安な日々を送ることになりました。大きな
特許戦争となりました。この特許戦争は食うか食われるかの大戦争でした。

しかし、運よく勝利しました。




そして、やっと 会社として公式に萩原の発明特許も評価される事になりました。

それまで、萩原はたいへん苦しい会社生活を10年以上過ごす地獄を味わいました。



当時 SONY中央研究所の所長の山田敏之さんからも e-mail で、
Fairchild 社との特許での萩原の尽力に対して感謝のメッセージを
受けました。その中に、昔のCCD時代の萩原の上司の越智さん
からの感謝のメッセージもありました。

山田敏之さんは、SONYのMagnet Diodeの発明者です。SONYの
半導体事業本部の企画室長時代、萩原も山田さんに守られながら
仕事をしていました。ソニー湘北短大の学長なども、歴任された方
でした。一方の越智さんは、SONYのCCDの開発事業化の歴史の
中で、その第一人者として、職制の責任者として、君臨した方です。
SONY本社の社長・会長や経営TOPへ報告する立場でもありました。
職場では、「PERTの越智さん」というあだ名がありました。本社の
御前会議でいつもCCDの開発スケジュールを報告する開発最高
責任者で、スケジュールが遅れていると、CCD開発の保護者の
岩間社長からだけでなく、CCD開発を良く思っていない、SONY
本社の幹部から、「お金の無駄使いだ」と非難されつつたいへん
苦しい立場でした。しかし、越智さんは、「半導体プロセスが未熟
な事が原因です」と自分の責任逃れする内容にはプロセス担当
の川名さんや加藤さんはあきれていました。そもそも市松方式の
Image Sensor も、透明電極を採用した受光部構造もプロセス
担当者が勝手に決めたことではありませんでした。できない時は
プロセスの責任にして、うまく行きだすとそれを自分の成果とする
ずるい態度ででした。事実CCDがうまく行くようになると、その成果
をすべて、SONYの代表者として社外からもまた社内でも、「ひとり
じめ」する事ができた立場にあった、運が良かった人でした。

萩原は、SONY入社時から、越智さんとはCCDの開発方針で意見が
合わず、よく言い争った仲でした。萩原が、まだ新入社員の素人の
若造のくせに、上司の越智さんの方針に「けち」をつける形でした。

萩原は中研時代にSONY中研のCrystal Awardを受賞しています。
その目的は Image Sensor の解像度の解析理論の研究でした。



当時、SONY中研では、市松転送方式の CCDImage Sensor の
開発を、SONYのCCD開発部隊は総力で手がけていた。CCDの
設計は、繰り返しパターンが多いだけで、CCDの設計は萩原が
1人で担当していました。評価も同僚の粂沢さん一人で担当して
いました。カメラシステム(山中課長・名雲係長・西村係長担当)
となると人が大勢必要でした。また、CCDのプロセス・デバイス
開発も大所帯でした。

市松方式は、越智さんのアイデアでした。「絵素数半分で、
水平方向の解像度が2倍にできる」という理論でした。しかし、
斜め方向の解像度はめちゃめちゃでした。

萩原は、「やはり王道の Interline方式の Image Sensor の方が
いい。」と越智さんのアイデアにケチをつけました。「斜め方向は
人間の感性としてあまり気にならない」との越智さんの主張でしたが、
萩原は納得しませんでした。結局実用化には至らず、商品化には
至らず、越智さんのアイデアは「お遊び」に終わった無駄な研究でした。


越智さんは、当時新入社員だった萩原の仕事の成果をすべて組織
の長として、「自分の成果」にしていました。日本のどこの会社でも
ある風潮でしたので、萩原も同僚も文句は言えませんでした(大涙)

萩原が中研時代に研究した、このImage Sensor の解像度の研究
報告書をもとに、越智さんは東京工業大学から論文博士号を取得
しました。その越智さんの論文には萩原の仕事の引用はありません。

「すべて自分がやったこと」にしている、unfair な論文でした。しかし、
当時では珍しくない、「会社の上司が、部下の仕事をまとめて、大学
で論文博士を取得する」という、典型的な当時の日本の風潮でした。

日本ではそれがまかり通っていた時代でした。その事が国際社会で
も大問題になり、論文博士は日本の大学では廃止となり必ず大学に
大学院生として公式登録してから博士号をもらう制度になりました。


そういう仲で越智さんとは、あまり関係を持ちたくありませんでしたが
CCDの特許戦争となると、仲間でけんかしているわけにはいきません。

越智さんと協力して、一緒に、CCD特許裁判で萩原は尽力しました。

それも最初はそのCCD特許裁判の詳細を萩原は知らされていなかった
ので、CCDの職場を上司の意見と合わずに首になりCCDの仕事から
離れた自分が、どうして自分が、手伝うのかも知りませんでした。

しかし開けてびっくり、萩原が1975年に出願した特許が攻撃を受けて
いたのです。それも米国の大手企業のFairchild 社からです。それも、
さらに、あの有名な、トランジスタの Early 効果で有名な、James M.
Early 氏が、1975年の7月22日出願の米国特許を武器に、Fairchild
社から、SONYは攻撃を受けていたのです。

この特許は世界で初めての縦型 OveflowDrain (VOD)の 発明で
たいへん重要なアイデア特許です。これには、SONYは、いや当時の
日本のすべての、Image sensor の製造メーカの企業は、困りはて
ました。まだ売り上げが少なった会社はささっと7~8億円に特許料
を支払いました。それで力を得た、Fairchild 社は Passport サイズの
CCDカメラで世界市場を独占した SONYを攻撃し始めました。その
特許料の請求額は、SONYのイメージセンサーの売り上げに比例する
ので、累計特許使用料が 600億円~800億円と言われる金額
でした。負けるとSONYは Image Sensorの事業から撤退の危険も
ありました。



 

しかし、SONYの Image Sensorの受光構造は、萩原が1975年
11月23日出願の、P+NPNsub接合型のPinned Photodiode 構造の
受光部を採用しています。 

このJames M. Early 氏の特許は、MOS型の受光素子構造に
埋め込みN+層を設けて、そのN+層を 縦型 Overflow Drain
としてものです。


一方の萩原1975年考案の特許では最終的にP+NPNsub接合型
のサイリスタ―構造でそのサイリスタ―のPunch-thru を利用した、
縦型 Overflow Drain (VOD)の動作原理で単純にPN+接合の
VOD動作とは異なります。




しかし、これを理解するには、半導体デバイス物理の深い技術的
な理解が必要で、裁判の陪審員にはその知識がなく、どうやって
それをご理解いただけるのか、SONYはたいへん苦労する事
になりました。


また萩原の特許も Early氏の特許も、ともに、1975年出願特許
ですが、 Early氏の特許の方が数か月早く、そのほんの差で、
SONYは、10年以上も時間と、また億単位の特許裁判の費用を
使わないといけない、不幸な運命を背負う事になりました。

その特許戦争の中心にいたのは、SONYで萩原ただ一人でした。

SONYではこの事は当然極秘扱いで、SONY社内でもほんの数名と
SONYの本社TOPしか情報シェアされていませんでした。


最終的に当時のSONY会長の大賀さんからも特許戦争で尽力した
萩原の努力をたたえて、感謝のメッセージをいただきました。





こういう話は、今のSONYの社長をはじめ、本社の経営TOPは、皆、
新しい世代の人たちが中心ですので、まったく知らない内容でしょう。

世代の差があります。また、当時のSONYの経営TOPにも、会社内の
ライバル関係にあり、「大変な、金くい虫のImageSensorの事業」と、
たいへん冷たく受けとめていた経営TOPも多いでした。岩間社長に
守られてCCDの開発が推進され、岩間社長の遺志が、大賀会長に
継承され、守られ、CCDの開発事業化は運よくSONYでは生き残る
ことができました。しかし、多くのSONY幹部TOPの方々には、裁判で
SONYが勝っても、ともに喜んでもらえる状態ではありませんでした。

さらに Image Sensorに、SONYの投資が集中する心配が生じ、
自分たちの事業計画への投資配分少なくなる懸念が大きくなり
ました。しかし、最終的に Image Sensor は、SONYを支える、
大きなSONYの利益頭になりました。日本の伝統ある半導体を
支える事業となりました。SONYは、トランジスターラジオで始め、
今も、イメージセンサーで、日本の半導体事業を支える、代表
企業の位置にいます。これからもさらに発展することを祈ります。




しかし、ここで、まだ萩原は浮かばれない事態があります
発明者として、萩原の個人的な問題かも知れませんが、
まだ解決してない問題があります。もうSONYにとっては
過去のことでどうでもいいお話かも知れませんが、萩原
個人の名誉にかかわる事です。それで、萩原はたいへん
浮かばれない気持ちでいます。どうしようもない無力を
感じています(大涙)。。。

次のWEBサイトを閲覧してください。

http://koueki.jiii.or.jp/innovation100/innovation_detail.php?eid=00059&test=open&age=

この発明協会のイメージセンサーの開発歴史において、
特に発明特許の発明者の記述にはたいへんな誤解を招く、
事実とは異なる記載があります。どこにあるかわかりますか?




SONYのHADセンサーの記述がありません。さびしい限りです。

また、高速アクション撮像をする、電子シャッターの発明者(萩原)
の記述もありません。SONYのHADイメージセンサーは、SONY
にとって、世界最大のイメージセンサーのメーカーとしての誇りが
ありますが、そのSONYのHADセンサーの記述が全くありません。

また、そのHADセンサーという名称を使わず、Pinned Photodiode
と呼び、その発明者はSONYの萩原でなく、もとNECの寺西さんと
しています。これは事実誤認もはなはだしいです。寺西さんは
1980年でIEDMで 埋め込みPhotodiodeを受光素子として使った
Interline 方式の Image Sensor を学会発表しました。それが
注目され、すべての 商品化されたCCD Imager の主流がその後
Interline 方式となりました。その業績は偉大なものでした。それが
いつの間にか、埋め込みPhotodiodeの発明者と誤解され、それ
以上に、埋め込みPhotodiodeと Pinned Photodiodeの区別の
つかない、半導体デバイス物理を知らない方々により、混同され、
最後は、Pinned Photodiodeの発明者として、2014年発表の
Eric Fossum 氏の Fake 論文で、祭り上げられてしまいました。
Eric Fossum と NECの寺西さんは、2017年には、受賞金が
億単位とも言われる、英国王室から Queen Elizabeth Enginnering
Prize を受賞しました。Fossum は CMOS Image Sensor の
開発発明者として、NECの寺西さんは、Pinned Photodiodeの
発明者として受賞しました。これはたいへんな間違いです。
本当の近代のActive Pixell のCMOS Image Sensor の発明者は
Eric Fossum ではなく、 英国の Peter Noble さんです。そして、
本当の Pinned Photodiode の発明者は、もと SONYの萩原です。

これはたいへんな事実誤認となりました(大涙)。



その間違った社会的評価を根拠に発明協会のWEBサイトにも
この様な間違った記載を堂々と大きな顔で表示し世界をだます
ことになりました。これには、Peter さんも萩原も今たいへん
不満でどうしようか思案中です。Peter さんも私も、もう歳です。
いつお迎えがくるか知れません。Peterさんは一応自分のやってきた
ことを本にまとめて、静かに、世界の評価を待つと言っておられます。
私も今さら大声を出す力はありませんが、年よりのぶつぶつ、ぼやき
の程度ならできると、このHOMEPAGEに、いろいろ好きな事を記載して、
その社会的評価判定は後世の若者に託すつもりでいます(大涙)。

ただ発明協会の事実誤認の記載だけはどうしても黙認できません(大涙)。

とは言え、どうすればいいのか、すべがないのが現実です。。。。


世界は真実を知る権利があります。


真実はひとつです。。。。


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これはその網膜細胞に相当する「電子の目」の開発の歴史と
その発明者のお話です。萩原良昭は1965年に17歳で渡米
し、南カリフォルニア州のLos Angeles の東約100キロの
砂漠地帯の Riverside Cityにある Polytechnic High
School
 の高校2年生に編入しました。同時に Riverside
City College
で 飛び級を受けて、大学2年生の学生と
一緒に数学の授業も受けていました。そして1967年から
Pasadena 市になる CalTECH に進学し、1971年BSを取得し
1972年にはMS を、そして1975年にPhDを取得しました。



1974年には、半導体集積回路の世界最大の国際学会で
ある IEEE 主催の ISSCC1974 で PhD 論文の内容を
学会発表しました。IBM 360 用にFortran 言語で coding して、
当時脚光を浴びていた Buried Channel CCDの動作解析
を研究テーマとしていました。CalTECHのジェット推進研究所
の装置を使って computer animation (36 mm film) を作製し、
それを Hollywood の映画会社で 16mm film に焼き直して
東海岸のPhiladelphia で開催された ISSCC1974の学会で
放映しました。5分程度の短い動画でしたが世界ででも大変
当時としては珍しい computer animation だったと思います。

萩原はまた、恩師の Prof. C.A.Mead の指導のもと、Intel社
と CalTech との産学共同プロジェクトに参加し、Intel社の
PMOS プロセスで 128 bit の data stream 高速比較処理する
集積回路を設計し、その成果は学会論文に発表されました。



そしてすぐに 1975年2月20日にSONYに入社しました。
母校のCalTECHからは1975年6月のPhD取得でした。
公式に、CalTechを卒業したのは、6月でしたが、
すでに、2月には、学生のまま、SONYの社員でした(笑)。



萩原はSONYに入社する1年前にISSCC1974で学生論文を
発表して初めて国際学会に顔を出してデビューしました。

ISSCCの国際運営委員やアジア委員長等を歴任し、SONYを
定年退職する年の、2008年の2月には、そのISSCCの国際
論文委員長として奉仕しました。

その後、熊本の崇城大学の情報学部の教授として2017年まで
奉仕し、その後は厚木市地元の神奈川工科大学の講師や
日本半導体産業人協会の教育委員など、いろいろと今も、
日本の半導体産業の発展に貢献したいと思っています。

萩原が大学の時、初めて手がけた、Image Sensor の仕事を
今も真剣に研究しています。

萩原は小学校時代から鉄腕アトムのような、人間にやさしい
人工知能システムの研究開発にたいへん関心がありました。

人工知能システムが外の世界を知る為には必ず、センサー
技術は不可欠です。

その目的で、萩原はImage Sensor に関心がありました。

SONY 時代には、Image Sensor だけでなく、Image Sensor
のアナログ出力信号を、高速画像処理する事が必要となり、
高速に AD 変換する半導体素子や、それを一時記憶する
Cache SRAMの開発商品化も手がけました。

最後は1975年同期入社で、同じく情報処理研究室出身の
久夛良木さんと一緒に仕事をするチャンスをいただき、
PS2とPS3の chip set の開発研究に従事しました。

すべて萩原に取っては人工知能システムを実現構築する
目的の為でした。現在も人工知能搭載の自動走行車の
システム研究にたいへん関心があります。その為に、
本も書いています。

「人工知能を支える、デジタル回路の世界」


1975年2月20日SONY入社で、即、SONYの横浜中央研究所に
配属され、Image Sensor の研究開発を続けました。最初の仕事は、 
two chip の Interline方式のCCD Image Sensor でした。

中研時代の開発チームは10人程度のチームでした。

CCD の chip 設計を萩原が1人で担当し、CCDの評価も同僚の
粂沢哲郎さんが1人で担当しました。一方、CCDのプロセス部隊
には大勢の人が必要でした。たくさんある半導体装置の立ち上げ
とそのメンテから、プロセスラインの個々の処理作業とその環境・
ごみ管理(狩野課長・阿部係長)まで大所帯でした。

CCDの fabrication process の技術開発(松本係長)、CCD の
device 評価装置の立ち上げとその評価作業(岡田係長・安藤課長)
など、大変な複雑な作業がプロセスラインにはたくさんありました。




この透明電極を採用したCCDはたいへん暗電流が多くて白点が
多発し、歩留まりが悪く、たいへんでした。

その時、萩原はMOS型の電極を ImageSensorの受光部に採用
することを、原理的に暗電流は低減不可能と力説し、その採用に
猛反対しましたが、生意気な若い新入り社員の言うことに耳を
傾けける先輩や管理責任者は誰もいませんでした。

当時のCCD開発TOPはその理由が理解できませんでした。

萩原は頑固にも、自分が考案した P+NPNsub接合型の受光素子
構造なら難しい透明電極を採用しなくても、歩留まり良く、暗電流
が少なく、かつ透明電極と同様に、光感度も良く、また、CCD並みに
完全電荷転送が可能で残像もない半導体受光素子ができると、
主張しましたが、誰も聞く耳はありませんでした(大涙)。

当時の設計側のTOPは、もともとデジタル回路の設計者でした。

半導体物理が理解できず、また、CCDのプロセス担当者も、
もともとは、Bipolar Transistor の製造プロセス経験者が中心で 
SONYは、Bipolar Transistor 担当技術者が中心で、MOSの開発
が遅れていました。 MOSのシリコン酸化膜界面物理を理解した
技術者は皆無でした。そういう状態で、理屈では萩原は職場の
先輩や上司を説得することはできませんでした。

後は行動で示すしかない、やるしかないと悟り、自らプロセス
ラインに乗り込み、好意を持っていただいた、狩野課長、阿部係長、
松本係長の保護のもと、P+NP接合構造の受光素子の試作を
慣行することができました。透明電極を使わないプロセスは彼ら
にも魅力的でした。それが当時のCCD開発最高責任者の岩間
社長の目に入り、岩間社長の保護のもと、P+NP接合構造の
受光素子を採用した、One Chipの Image Sensor の開発を
慣行する事ができました。

しかし、本命はあくまで ITL 方式の Image Sensor で、CCD
開発部隊全体は動いていました。それも透明電極を採用した
プロセスで動いていました。当時のCCD部隊の先輩や責任者
からは、「萩原は邪魔をしている」と、ヤジを飛ばす人も多い
でした。それに耐えながら、協力してくれる仲間もたくさんおり、
一緒に頑張り、完成することができました。

しかし、萩原考案の受光素子構造を、ILT方式には採用して
もらえませんでした。すでに ILT 方式では透明電極を使った
Two Chip で商品化に成功しており、 One Chip 化も、もうすぐ
完成するメドでした。そして、SONYは 透明電極を採用した 
ONE CHIP CCDを本命として進むことになっていました。

萩原は透明電極ではだめだと言ってもだれも聞く耳は持ち
ませんでした。萩原にとって一番の理解者だった、岩間社長が
急死し、逆に萩原は後ろ盾をなくし、CCDの開発方針にけち
をつけ、上司にたてついた未熟な若手社員として、萩原は
追い込まれ、首になりました(大涙)。

しかし、ある意味では萩原はチャンスをもらった事になります。

Image Sensor 技術だけにとどまる事なく、AD変換器やCache
SRAMの設計商品化,SONY内製マイコンの開発から、最後は、
PS2&PS3の chip set の開発研究のチャンスをもらいました。

さらに萩原は、最初は半導体企画室のSTAFFとして、最後は
半導体技術企画室長として、SONYの半導体の知的財産問題
をフォローする立場になり、CCD事業化関連の水面下の長期
に渡る、米国Kodak社や Fairchild 社や 日電等との特許戦争
をサポートする立場になり、SONYの Image sensor ビジネス
を守っていました。


この萩原開発の P+NP接合型の Pinned Photodiode を
受光素子構造として採用した、One Chip FT型 CCD 転送
方式の Image Sensor は商品化されることもなく、SONYでは 
幻のImage Sesnor となってしまいました(大涙)。


しかし、萩原発明のP+NPNsub接合型のPinned Photodiodeは
もともと 萩原が 1971年と1973年にSONYの厚木工場で
実習生として学んだSONYの Bipolar Processをヒントに考案
した半導体受光素子構造でした。

SONYのCCDのプロセス開発のTOPは、SONYの Bipolar
Transistor プロセス技術を立ち上げた川名喜之さんと
加藤俊夫さんでした。結局、川名さんと加藤さんに守られ
萩原は仕事を続ける事ができました。ラッキーでした。
そして、 Bipolar プロセス経験技術者には、P+NPNsub
接合構造は簡単な構造でした。High Enegy Ion Implantation
をいち早く採用して、条件出しして、暗電流の少ない理想
的な、P+NPNsub接合の受光素子を完成しました。そして
SONYはそれを SONY Hole Accumulation Diode (HAD)
と商標登録し、世界の Image Sensor 市場を制覇すること
になりました。その技術力は今も継続され、より良い性能の
Image Sensor の実現の為に、SONY社員一丸となり、力を
合わせて頑張ってくれています(笑顔)。




萩原が Pinned Photodiodeの発明者であることは、
世界的な Image Sensorの権威者でもあり、もとは
Phillips社の Image Sensor の開発研究者で現在
Delft 大学の教授でもある、Prof. Albert Theuwissen
も、萩原が Pinned Phoodiode の本当の発明者で
あると断言してくれています。その e-mail での
communication 記録
も残っています。


しかし、半導体デバイス物理が理解できない方々には
まったくその真意がまったく世界的に理解されず、誤解
されたままです(大涙)。

現在、少なくとも 発明協会のサイトの間違った記載
だけでも訂正していただきたい気持ちでおります。



























































Modern CMOS Image Sensors are based on Hagiwara 1975 inventions.

















これは、萩原が技術者として歩んだ青春時代の、

努力し苦労した仕事の、楽しかった思い出話です。


Index_A000 Story_of_Pinned_Photo_Diode.html

Index_A001 半導体は現代文明のエンジン

Index_A002 「賢い電子の目」のお話

Index_A003 Image Sensor の基本構造

Index_A004 History of Photodiode

Index_A005 種々の半導体受光素子( Photodiode )

Index_A006 1975年2月SONYに入社して

Index_A007 なぜ CCD Image Sensor が消えたのか?

Index_A008 埋め込みPhotodiode と Pinned Photodiodeの違いは何か?

Index_A009 Device Physics of Pinned Photo Diode.html


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Yoshiaki Hagiwara was invited in the following five international
conferences because of his contributions to the image sensor
community and related digital system LSI chip design works.

See the five invited talks related to the Pinned Photo Diode
which is also called as SONY original Hole Accumulation
Diode (HAD) image sensor.

(1) International Conference CCD79 in Edinburgh, Scotland UK

See http://www.aiplab.com/0-CCD79_1979Hagiwara.pdf

(2) International Conference ESSCIRC2001 in Vilach, Austria.

See http://www.aiplab.com/ESSCIRC2001.pdf

(3) International Conference ESSCIRC2008 in Edinburgh, Scotland UK

See http://www.aiplab.com/0-ESSCIRC2008Hagiwara.pdf

(4) International Conference ISSCC2013 in San Francisco, California USA

See http://www.aiplab.com/ ISSCC2013PanelTalk.pdf

(5) IEEE Computer Society 主催の Coolchips 2017 at Yokohama, Japan


See http://www.coolchips.org/2017/?page_id=10#panel


Related Works by Hagiwara

(1) Pinned Photo Diode (P+NP) and SONY HAD
(P+NPNsub) are the same thing. Both were invented
by Hagiwara at Sony in 1975 in the Japanese Patents

See http://www.aiplab.com/Pinned_Photo_Diode_1975_invented_by_Hagiwara.pdf

(2) For MOS CTG Global Shutter Memory and Back Light Illumination
PP-NP+N-N+ junction Pinned Photodiode Patent ,
see http://www.aiplab.com/JP1975-127646.pdf

(3) For MOS CTG Global Shutter Memory and Back Light Illumination
NP+N-N+ junction Pinned Photodiode Patent,
see http://www.aiplab.com/JP1975-127647.pdf

(4) For the built-in Vertical Overflow Drain (VOD) function type
P+NPNsub junction Pinned Photodiode Patent,
see http://www.aiplab.com/JP1975-134985.pdf

(5) Hagiwara as a PhD student at CalTech designed
a Fast 128 bit digital data stream parallel comparator
chip, which was fabricated at Intel with the Intel 1101
PMOS process technology.

See http://www.aiplab.com/128_bit_Comparator.pdf

(6) Hagiwara designed a Fast 25 nanosecond access time
4 M bit Cache SRAM chip for digital camera applications.
Intel used the SONY SRAM chips in the Intel boards.
Sony enjoyed SRAM business while many semiconductor
companies in Japan were focusing on the 4 M bit DRAM
chip business.


See http://www.aiplab.com/SONY_4MSRAM_1989.pdf

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Device Physics of Pinned Photodiode

JP 1975-127646.pfd


JAP 1975-127647.html
JP 1975-127647.pdf

JAP 1975-134985.html
JP 1975-134985.pdf


JP 1978-1971.pdf

JP 1980-123259.pdf



List.html

index000.html

index000_ImageSensor.html

index_000_introduction.html

index_001_Sony_HAD_senosor.html

indexAIPS.html
indexAIPS01.html

indexA1_What_is_Semiconductor.html
indexA2_What_is_Solar_Cell.html
indexA3_What_is_Solid_State_Image_Semsor.html

indexHADsensor.html

indexHADsensor01.html

index_Hagiwara_Diode.html

index_Fossum_is_a_liar.html



index001_introduction.html

index001_Introduction_of_Hagiwara.html


index002_SONY_original_HAD_sensor.html

index002_What_is_Pinned_Photo_Diode.html


index003_PPD_and_HAD_are_the_same_thing.html

index003_What_is_Digital_Camera_Made_OF


index004_Hagiwara_invented_Pinned_Photo_Diode.html

index004_Hagiwara_Works.html


index005_Hagiwara_1975_Patent.html

index005_Semionductor_Device_Physics_for_PPD.html


index006_Sony_Fairchild_Patent_War.html

index006_Two_1975_Hagiwara_Patents_on_Pinned_Photo_Diode.html


index007_Sony_NEC_Patent_War.html

index007_Two_Japanese_1975_Patents_on_Pinned_Photo_Diode


index008_Fossum_2014_Fake_Paper.html

index008_How_Hagiwara_PPD_Patents_Saved_SONY_Business


index009_Summary.html

Hagiwara_at_Sony_is_the_true_inventor_of_Pinned_Photo_Diode.html

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Ref1.html
Ref2.html
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Ref6.html
Ref7.html

Story_of_Pinned_Photo_Diode.html

Study_Korean.html

index_A3_1_2_Special_Relativity.html

index_Abura_Wake_Zan.html

index_TsuruKameZan.html

index_01_KisoJouhoSuugaku.html

index_02_OuyouJouhoSuugaku.html

index_03_SuuchiKeisanHou.html

index_04_DigitalCircuits.html

index_05_SemiconductorLSI.html

index_06_RobotKougakuKiso.html

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index000_KAIT03.html


Pinned_Photodiode_and_SONY_HAD_Sensor_invented_by_Hagiwara.pdf


0-CCD79_1979Hagiwara.pdf ---> See the original CCD'79 Paper

0-ESSCIRC2008Hagiwara.pdf

0-HAD_Sensor_Patent_1975Hagiwara.pdf

128_bit_Comparator.pdf

HADsensor_NEC_SONY_Patent.pdf

Hagiwara_invented_pinned_photo_diode_in_1975_01.pdf

JPL_CalTech_Pain.pdf

Pinned_Photo_Diode_1975_invented_by_Hagiwara.pdf

Pinned_Photo_Diode_Patent_by_Hagiwara_at_Sony_in_1975.pdf

Pinned_Photodiode_1978_Paper_by_Hagiwara.pdf

Pinned_Photodiode_Patents_1975.pdf

Hagiwara_Yoshiaki_CaltechDiploma_PhD1975.pdf




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The AIPS image sensor watching at its inventor, Yoshiaki Hagiwara.
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