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The AIPS ( Artificial Intelligent Partner System ) Home Page 009
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萩原1975年発明のP+NPNsub 接合(サイリスタ)型の
光感知素子構造の話にに戻ります。

1975年2月に入社してすぐ萩原は2つの光感知素子構造特許を出願し、
萩原はその構造が本命となると確信していましたが、上司の越智さんを
はじめ、SONYの技術者は誰も、萩原の主張を理解してくれる技術者は
いませんでした。「本命の仕事をじゃまするな!」と上司の越智さんに
言われながらも、「また、SONYのCCD開発方針にけちをつけるのか!」
と叱られつつも、萩原は、P+NPNsub 接合(サイリスタ)型の光感知素子
構造が、残像のない低雑音で低暗電流でかつ、透明電極を使わなくても、
CCDにはない超光高感度とい特徴を持つことに確信していました。

運良く、萩原は1971年と1973年にSONY厚木工場の Bipolar Transisor IC
の製造ラインで実習経験がありました。そのお蔭で、中研でCCDのプロセス
開発部隊の技術者(狩野さん、阿部さん、松本さんたちの先輩技術者)とも、
CCDプロセス技術に関して、対等に話し合うことができました。

それがたいへん幸運でした。「萩原が自ら設計し、萩原が自らプロセス
開発ライン(渋谷さんと後藤さんの女性アシスタント)に入り、先輩に教えて
もらい試作します。CCDカメラ制御回路もデジタル回路ももともと自分の
専門分野なので自分で設計します。はんだづけはあまり得意ではありま
せんが、評価冶具も制作します。」と希望を述べました。

当時、きずのないCCDのチップがなかなか造れず、カメラ制作部隊は
まだかまだかと首を長くして待っていました。岩間社長が中研に進捗報告
会議に毎月のごとく訪問していました。開発TOPの越智さんはチップが
なかなかできないのは、プロセスラインの問題だと責任をプロセス担当
の川名さん、狩野さんチームに擦りつけていました。そのことがたいへん
プロセス担当技術者には不快に感じていました。

そういうストレスのたまった状態で、萩原の雑音でした。

上司の越智さんは猛反対でしたが、「そこまで熱意があるならやらしても
いいのでは、どうせ、CCDの設計評価部隊は、越智さんも岩間社長に
報告した様に、CCDのプロセスラインが未熟で、まだなかなか、きずの
ない、いいCCDができないので、やることがなく、口を開けて待っている
だけだから。」と、勇敢にも、越智さんにいやみを言って、萩原を応援して
くれる先輩がいました。

若い世代のCCDプロセス担当者はもともとMOSプロセス開発部隊の
方々でしたが、CCDプロセス開発部隊のTOPの川名さんや後で参画
した加藤俊夫さんたちのTOPはもともとSONYのシリコントランジスタ
開発時代の現役技術者でした。

川名さんは「中ぐり製法」といい、世界で初めてシリコンの裏面を
薄くする技法を発明し、シリコントランジスタのON抵抗を低減し、
量産性を向上し、SONYのシリコントランジスタ製造技術を世界一
にした技術功労者でした。

また、加藤俊夫さんは、Advanced MESA Passivation 技術の
発明者で、当時のFairchild社が日本の各社を Planar Transistor 
の製法特許で苦しめていた時、SONYだけが Fairchild社のPlanar
Transistor の製法特許を逃げていました。

川名さんと加藤俊夫さんの発明により守られ、SONYの半導体は、
世界一の性能を持つシリコントランジスタを量産継続することが
できました。

また、当時、軍事用にのみ製造していた、米国のTexas Instrument
社の技術者は、自社のシリコントランジスタ製造技術より、SONYの
シリコントランジスタ製造技術が優れていることに驚き、SONYは、
米国 Texas Instrument社から、直接、技術交流の話( Love Call )
を受けることになりました。後に日本の半導体企業は、膨大な特許
使用料請求で苦しみましたが、SONYは米国のTexas Instrument社
との技術提携のお蔭で、米国のTexas Instrument社保有のキルビー
特許に対して、SONYは全くその制約もなく、SONYは半導体ビジネス
を展開することができました。

萩原のCCDへの熱意は、川名さんと加藤さんの、自分たちの青春時代
のことを思い出させたのか、萩原にエールを送ってくれました。

当時はまだSONYにはCCDのプロセス開発ラインは、ソニー中研でしか、
ありませんでした。「1つでも傷のないchipを造れ。」との岩間社長から
の強い号令でした。それが1978年に入り、実現しました。

CCDの設計はほとんどが同じ絵素構造の繰り返しで、非常に単純で、
一人で設計できるぐらいの少ない情報量で設計できます。ただし、chip
面積が 1 cm 角もあり、その設計CADは市販されていません。すべて
社内での内製でした。萩原は一人でそのCCD設計用のCAD(DSPLAY)
の開発を担当していました。そのCAD(DSPLAY)を使って、萩原が一人で
CCD Image Sensor の設計を担当していました。 CCD 絵素構造には、
いろいろと半導体素子の構造物理や動作原理の知識が必要でした。

萩原が所属する情報処理研究室の技術者はコンピュータソフト開発技術
者とアナログとデジタル回路設計技術者が中心で、半導体物性や半導体
デバイスの動作原理を理解した技術者は萩原1人だけでした。

萩原がこつこつと一人で、「ああでもないこうでもない」と思案しながら、
設計し開発した、One Chip 方式のFT 型がまず1978年に完全にきずの
ないchipとして、実現しました。そして、その後に、より複雑なプロセス工程
を必要とする、Two Chip 方式 IT 型も、1980年に実現しました。

両方の方式で、傷のない完全な chip ができました。

これで存在定理は証明されたということです。

川名さんと加藤俊夫さんが現役時代に描いた、トランジスタの開発生産の夢を、
もう一度CCDの開発生産の夢につなげることが可能となりました。

川名さんと加藤さんはSONYの厚木工場の 8号館にCCD開発ラインを造り、
開発技術者がそのに結集しました。

そして、同時に鹿児島県のSONY国分工場ではCCD生産ラインを立ち上げるべく、
SONY国分工場の高橋工場長と宇野義道製造部長が中心となり、小笠原さんを
CCD生産ラインを立ち上げの総合責任者として準備が開始されました。

萩原が1971年と1973年にSONY厚木工場に実習に来た時の、萩原の実習の
指導官は当時の宇野義道主任でした。高橋工場長と宇野義道製造部長の要請で、
萩原はひんぱんにSONY国分工場で長期出張しました。SONY国分工場採用の
新規の若い社員のCCD技術の教育指導官として勤務しました。

その遺伝子が今、SONY国分工場から、SONY長崎工場、さらにSONY熊本工場へ
と継承されて、今に至ります。今では、SONY熊本Techで、世界最高品質の、SONY
が誇る、Digital CMOS Image Sensor が開発生産されることになりました。SONYは、
世界で初めて、裏面照射型の、超光高感度の、低雑音で、低暗電流で、残像なしの、
萩原1975年発明の、光感知素子構造が、今になってやっと、多くのSONYの勤勉な
開発・生産技術者の総力の結晶として、実現しました。





今では、SONY熊本Techで世界最高品質の Digital CMOS Image Sensorが
開発生産されることになりました。世界で初めて、SONYは、裏面照射型の
超高感度の低雑音で低暗電流で残像なしの、萩原1975年発明の光感知素
子構造が実現しました。

(JAP 1975-127648 )と (JAP 1975-134985)を参照。

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萩原の母校のCaltech での在学時代、萩原は教授から 

The truth shall you make you free.

という言葉を良く授業で聴かされました。その意味が、
萩原は、この歳、70歳になり、しみじみと感じています。

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先日、NHKのヒストリアで「幻のノーベル賞」と題して、
癌の研究で一生を捧げた、山極勝三郎教授の業績
たたえた番組がありました。

ノーベル賞でも間違いがあると知りました。

同様な癌の研究で別の科学者が受賞しました。しかし
「その研究は実は間違いだった。」 との内容でした。
ノーベル賞でも判断ミスがあるということを知りました。

山極勝三郎教授は、無念にも受賞を逃しました。

その後も、山極勝三郎教授は、癌の研究に一生を
捧げた方です。たくさんの癌の研究発表や書物を
残されています。健全な細胞に刺激を加える事に
より、人工的に癌を発生させる事に、世界で最初に
成功されました。そして、その再現確認が、世界中
の科学者により、その後なされ、現在に至ります。

「刺激の強い食べ物、熱い飲み物や、タバコや
いろいろな化学物質は癌の発生起爆剤となる。」
といつも話されていた、献身的な癌研究者でした。

「当時、真の癌研究の世界第一人者は、山極勝三郎
教授だった。」と、世界はその事実を今認めています。

過去は情報不足で間違いがあっても仕方がありません。

しかし、事実は1つです。過去は変えられません。しかし、
何が真実で、何が嘘だったか、その調査究明の努力は、
今を生きる人間には可能です。今生きる人間の責任です。

他の科学の分野でも同様な間違いが数多くあっても
仕方がありません。しかし、人類は真実の探求を
あきらめたり、怠っては、人類には未来はありません。

萩原の母校のCaltech での在学時代、萩原は教授から 

" The truth shall you make you free . "

という言葉を良く授業で聴かされました。その意味が、
萩原は、この歳、70歳になり、しみじみと感じています。

萩原は1975年から2008年に定年退職するまでSONYに
勤務しました。SONYが米国ベル研でのトランジスタ―
の発明にいち早くその価値を見通し、特許使用権を格安
で購入し、世界があきらめていた、トランジスタ―の量産
技術の確立に総力をあげて取り組みました。そして半導体
のプロセス開発生産技術者の長年の努力により、小型の
家庭用トランジスターラジオを生産し市場を制覇して、
SONYは大きく成長しました。

1975年に萩原がSONYに入社した時、SONYは世界が
あきらめていた、CCD Image Sensor の量産技術の
確立に総力をあげて取り組んでいました。そして、CCD
のプロセス開発生産技術者の長年の努力により、小型
の家庭用の超感度・低雑音・残像なしの高性能なCCD 
Video Camera を生産し、世界のビデオカメラ市場を
制覇しました。SONYの生産技術力は、今も、Modern
Digital CMOS Image Sensor の開発生産技術力の
基盤となっています。SONYの成功の秘訣は、SONY
のビデオカメラが、超感度・低雑音・残像なしの高性
能なビデオカメラであったのが本当の要因でした。

その高性能を実現したのは、勤勉なSONYのプロセス
開発生産技術者の努力なしには実現しませんでした。
SONYが世界に先駆けて超感度・低雑音・残像なしの
高性能なビデオカメラを市場提供できたのは、勤勉な
SONYのプロセス開発生産技術者の総力があってこそ、
実現しました。

しかし、量産技術だけでは不十分です。何を量産するか
はもっと基本になるものです。どうして、SONYが造る
ビデオカメラが他社と比較して、超感度・低雑音・残像なし
の高性能なビデオカメラだったのでしょうか?

その要因は、ビデオカメラに採用する、光感知素子構造を
SONY独自で考案し特許化していたからです。SONYは
テレビの事業化の時も、他社とは違う、トリニトロンテレビ
を市場に提供しました。ビデオカメラの場合も、SONYは
他社とは違う、SONY original HAD sensor 搭載のビデオ
カメラを市場に提供し、世界の市場を制覇しました。

この SONY original HAD sensor は SONYの萩原の
1975年の発明です。HAD ( Hole Accumulation Diode)
はSONYの商標名として登録されました。しかし、学会や
一般技術用語として 、Pinned Photo Diode と呼ばれて
います。SONYの商標のSONY original HAD sensor と
学会一般用語のPinned Photo Diodeは同一のものです。
萩原がSONY時代に1975年に発明考案したものです。
しかし、この事実は、あまり遠い昔のことで、また日本国
特許のみの出願で、外国特許への出願が皆無で、世界
的には、その存在がまったく知られていませんでした。
また、発明者の萩原自身も遠い昔のことでその詳細を
忘れていました。SONY社内でもその存在を記憶する人は
皆無でした。

しかし、近年あれだけ脚光を浴びた、超感度・低雑音で、
残像なしの高性能な、CCD ビデオカメラが市場か消え、
今はCCDより高性能で高解像度の、超感度・低雑音で、
残像なしの高性能な、CMOSビデオカメラが市場を制覇
しています。今、やっと世界は、本当は何が、超感度で
低雑音で、残像なしの高性能なのかを理解し始めました。

その主役( Super Star ) は、CCDでもなく、CMOSでもなく、
萩原が1975年に考案し特許出願した、光感知素子構造の
発明、すなわち、SONY original HAD sensor であり、別名、
Pinned Photo Diode と呼ばれるものだと、世界がその価値
に気づくようになりました。

しかし、ここで問題が生じました。

SONY original HAD sensor と Pinned Photo Diode が
同一構造であることを理解していない、違うものだと、誤解
している人たちが、半導体素子構造とその詳細な動作原理
の知識をお持ちでない人たちが、多数存在することがわかり
ました。SONY original HAD sensor の発明者がSONYの
萩原であることは、SONY内では、萩原がHADの発明で、
SONYの特別発明褒賞一級を受賞している事実から明らか
ですが、世間一般は残念ながらその事を知りませんでした。

SONY original HAD sensor はビジネス商標名ですので、
学会関係の方々からは、無視されても当然の事です。

また最初の特許考案やその発明者の話となると、企業間
の政治的な、醜い金銭問題や、特許権利化戦争にかかわる
重大な企業の存亡にもかかわる話で、舞台裏でどんな、
醜い工作があっても、仕方がない話です。しかし、迷惑を
受けるのは、いつも発明者ご本人やその開発技術者です。

罪のない純粋な技術者の名誉と自尊心が迫害される事が
あっては絶対にならない事です。そして、その発明を社内の
独自の発明と信じ、汗と努力で、生産技術を確立し、製品
として実現努力した、多くの勤勉な技術者の存在を無視する
ことはできません。その会社の発明でないなら、その会社の
勤勉な技術者は、「猿まね」をしていたことになります。これは
会社へのたいへんな侮辱であり、社内の多くの勤勉な技術者
の努力を無駄にするもので、絶対許されることではありません。


嘘の話、詐欺まがりの話で世界がだまされ、
無実の人が被害を受ける話をよく聞きます。

学会でも同様です。

事実誤認、または不正や不当な科学者が
評価され、正直に努力し、生きた科学者が
無視される事がよくあります。


実際、そういう事態が、萩原の身近で
生じてしまいました。萩原自身と勤勉な
SONYの技術者を侮辱する不幸・事態が
生じてしまいました(大涙)。

萩原が1975年に既に発明したものが、
別の会社の研究者の1979年の発明だと
誤認され、SONYの勤勉な技術者が総力
で開発し生産技術を確立した、SONYの
Sony original HAD sensor が、ビジネス
商標であるが為、学会や世間一般では
完全に無視され、全く同一構造体である
のに、別名の Pinned Photo Diode と
呼ばれています。また、その発明者は
SONYの萩原(1975年発明)であるのに、
学会や世間一般では、別名の Pinned
Photo Diode の名称だけが一人歩きし、
その発明者が、もとNECの寺西(1979年
発明)となっています。事実誤認もはな
はだしい事が実際に生じてしまいました。


完全に萩原の発明者として誇りとSONY
の勤勉な技術者の努力により実現した
Sony original HAD sensor が、学会や
世間一般からは完全にその業績が無視
される事態が生じてしまいました(大涙)。

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萩原の母校のCaltech での在学時代、萩原は教授から 

The truth shall you make you free.

という言葉を良く授業で聴かされました。その意味が、
萩原は、この歳、70歳になり、しみじみと感じています。

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これは70歳じじいのぶつぶつぼやきの独り言でした。

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The AIPS image sensor watching at its inventor, Yoshiaki Hagiwara.

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