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The AIPS ( Artificial Intelligent Partner System ) Home Page 037

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(1) Introduction

(2) Sony original HAD sensor の背景

(3) the pinned photo diode と Sony original HAD sensorは同じもの

(4) 萩原良昭の自己紹介と活動報告

(5) 萩原1975年出願特許( Hagiwara Diode の発明)のお話

(6) 米国 Fairchild社とSONYの特許戦争について

(7) NEC日電とSONYの特許戦争について

(8) Fossum 2014年 Fake 論文について

(9) まとめ


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(6) 米国 Fairchild社とSONYの特許戦争について

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SONYと 米国 Fairchild の特許戦争 (1991~2000) は SONYの勝利で終わりました。

  萩原の1975年特許 (Hagiwara Diode = pinned photo diode )の存在が幸いしました。




SONYは、米国 Fairchild 社から次の2件の基本CCD特許で訴えられていた。



(1) Amelio USP 3931674 米国特許 ( 1976年1月13日 ) 2層polysilicon電極型 CCDの製造方法に関する特許

(2) Early USP 3896485 米穀特許 ( 1975年7月22日 ) CCD型受光部の埋め込み縦型OFD の構造特許


多くの日韓の大手半導体メーカを相手にした特許戦争である。その特許請求額はSONY一社で600億円にものぼった。


(1)のAmelio USP 3931674 米国特許 ( 1976年1月13日 )は、先行文献があり簡単に無効とされ却下された。


実は、Amelio USP 3931674 米国特許 ( 1976年1月13日 )に関しては、すでに 1973年12月に国際会議IEDM1973で

米国 Hughes Aircraft社の D.M.Erb氏等による論文 "An Overlapped Electrode Buried Channel CCD", IEDM1973,

Dec. 3-5 が先行しており、SONYのCCDの製造方法は、Amelio USP 3931674特許の製造方法ではなく、この米国

Hughes Aircraft社の D.M.Erb氏等による論文の手法を採用していたことが幸いした。発明時期が、米国 Hughes 

Aircraft社の論文が先行していることで、簡単に却下された。


しかし、(2) のEarly USP 3896485 米穀特許 ( 1975年7月22日 )に対して、たいへんてこずった。


その救いとなったのが、 1975年萩原が出願した、 SiO2_P+N-PNsub junction 構造の Hagiwara Diodeの発明だった。



Hagiwara Diode自身はもともと絵素構造に組み込み縦型OFD機能を持つ万能の高性能半導体受光素子として誕生した。



その後、 SONY original HAD sensor と呼ばれるものも、現在、 pinned photo diode と呼ばれるものも、この1975年の

萩原特許で定義された SiO2_P+N-PNsub junction 構造の Hagiwara Diodeと同一のものである。これが裁判を救った。






萩原の母校( CalTech ) の先輩で、当時 UC Davis校の教授をしていた Prof. Bob Bower がこのHagiwara Diodeの発明

について裁判の中で技術証言した時、その発明者の名を尋ねられて時、Prof. Bob Bower は裁判官に対して、発明者は

自分の母校( CalTech ) の後輩で、Prof.C.A.Meadの指導のもとで、CCD のPhD論文を書いた、Yoshiaki (Daimon) Hagiwara

であると証言した時、Fairchild側はびっくりした。それも当然である。 Fairchild社は,もともと、CalTechの卒業生であり、

萩原とProf. Bob Bowerの先輩でもある Dr.Gordon Moore が創設した会社である。Dr.Gordon Mooreは Intel社の

創設者でもある。



実は、 Early USP 3896485 米穀特許 ( 1975年7月22日 )に対して、萩原が発明した Hagiwara Diode 特許の出願は、

1975年11月10日となっており、数か月であるが、Early USP 3896485より遅く、この2つの発明の相違を説明するのが

たいへんだった。



半導体素子構造とその物理動作の理解が不可能な一般市民(陪審員)を含む裁判関係者に理解してもらうことは

容易ではなかった。単純に言えば、1975年の萩原特許(Hagiwara Diode)は、表面が酸化膜(SiO2)で保護された、

SiO2_P+N-PNsub 構造となっている。



一方、Early USP 3896485 米国特許では、CCD型の受光構造そのものを採用していた。表面はCCD特有のMOS容量で

構成されている。表面が金属電極で覆われた表面型のCCD構造を採用しており、その下に埋め込みN+拡散層があり、

OFDの機能を果たした。



Early USP 3896485 は、CCD型の受光素子を使ったMOS型のOFD構造であった。しかし、SONYのCCD製造方法では、

thyrister 構造の受光構造 ( Hagiwara Diode ) を採用していた。 すなわち、 SiO2_P+N-PNsub junction 構造 をとり、

2つは、まったく構造が違っていた。 



SONYのCCD製造方法では、thyrister の動作 modeの1つである punch thru 効果( 周知の基本動作 mode )を採用した

OFD 動作であり、自動的に縦型のOFDが組み込まれた構造となっている。1975年萩原がこのHagiwara Diode特許を

出願した時には、CCD動作はすでに、完全電荷転送による残像なし効果と低雑音という優れた特徴を持っていた。


1975年に萩原が出願した Hagiwara Diodeの発明特許は、このCCD動作と同様に、完全電荷転送による残像なし効果と

低雑音という優れた特徴を持ちつつ、さらに、thyrister 構造のSiO2_P+N-PNsub junction 構造を採用することにより、

CCD型の受光構造にはない、超感度特性と組み込み縦型OFD機能を装備した受光構造を可能とした。



Early USP 3896485 米穀特許は、Metal_SiO2_P_N+ 構造となっており、一方、SONYのCCD製造方法は、

thyrister 構造となっている。


この2つの構造が本質的に違い、別物であることは、、半導体技術専門家には容易に理解できることであったが、

裁判関連担当者は、一般人で、半導体素子の構造とその動作に関しては「素人さん」であり、その方々に

ご理解していただく事は、そう簡単な事ではなかった。



素人を相手にするのではなく、学会で知り合った技術者や、母校(CalTech)の先輩や教授恩師に話しかけ、

根気強く時間をかけて、萩原の意見を説明し、中立な立場で彼らの正直な見解を萩原は聞いてまわった。



わらでもすがる思いだった。自分の1975年特許をただ一心に守りたかった。萩原は発明者としての誇りを

一心に守りたかっただけである。最終的に技術者の世論となり、その声は、裁判官にも届いた結果となった。 


Reference :  Y. Hagiwara, “High-density and high-quality frame transfer CCD imager

         with very low smear, low dark current and very high blue sensitivity,”

         IEEE Trans. Electron Devices, vol. 43, no. 12, pp. 2122?2130, Dec. 1996.


In this paper, Hagiwara, in 1996, revisited the 1975 invention of Hagiwara Diode ( pinned photo diode )

and claimed that the virtual phase CCD has a P+NP junction sructure ( Hagiwara Diode ) in common

Hagiwara Diode was also essentially the invention of the NEC low-lag structures, and as well as

the basis of the Sony so-called “Hole Accumulation Diode,” or HAD structure.













SONYと 米国 Fairchild社との特許戦争では、米国 Fairchild社は次の2つの特許料請求権を主張した。


(1) Amelio USP 3931674 米国特許 ( 1976年1月13日 ) 2層電極型 CCDの製造方法に関する特許がその1つである。

   この特許に関しては、先行周知技術資料の存在が判明し簡単に却下された。


 1973年12月のIEDMで、もと米国 Hughes Aircraft 社の技術者が発表した、2層電極型 CCDの構造とその製造技術

 に関する発表があった。SONYは幸いにもこの構造での製造方法に近いものだった。実は、この国際会議 IEDM1973

  に出席していた Fairchild社の Amelio は、Hughes Aircraft 社の発表をヒントにその3ヶ月後に派生特許を申請した。

  「Amelio はたいへんずるい奴だ。」と批判する技術者の話を萩原は国際学会でいつも会う友人たちから聞いた。



(2) Early USP 3896485 米国特許 ( 1975年7月22日 ) CCD型受光部の埋め込み縦型OFD の構造特許が2つ目である。


SONYのimagerの製造方法は、 1975年11月10日に萩原が出願 がした特許 ( JAP 50-134985, 1975 ) 構造であったが、

出願日が Early USP 3896485 米国特許 ( 1975年7月22日 ) の方が数か月早かった。これがたいへんな問題となった。

技術的にこの2つの受光構造がまったく異なる構造であることを、裁判関係者(半導体物理を理解しない一般人から選ばれた、

陪審員裁判での陪審員など)に説明し、理解していただくことは、容易な仕事ではなかった。当時、もう萩原はSONYのCCD

開発部隊から首になり、別の仕事に従事しており、この裁判は社内でも最高極秘事項で関係者以外にはまったく社内でも

その情報は知らされていなかったが、その裁判の有力なSONY側の武器はまったく見つからず、やっと特許担当者が社内

の特許リストから萩原1975年特許を見つけて萩原に連絡がきた。当然、当時SONYのCCD開発部隊のTOPの越智は

萩原1975年特許を知っているはずと思っていたが、完全に1990年になると、萩原1975年特許のことを忘れていた。

これにも萩原は寂しい思いだった。当時のSONY側の特許裁判のTOP責任者の越智がその存在を忘れており、特許担当

者がこっそりと私に連絡してきたことが、たいへん萩原には不自然に思えた。萩原と越智がCCDの開発方針で意見が合わず、

最終的に萩原が首になり、越智がTOPのCCD部隊から去っていたことは周知だった。後進の浜崎たちに萩原が技術継承

をしていた事実を越智は認めたくない心情であった。その後のCCD開発の部隊の仕事の中で萩原が残した遺産でCCD技術

が支えらていることは、萩原が育てた後輩たち、竹下、松井、奈良部、浜崎、石川たちは理解してくれていた。浜崎は内心、

越智のCCD開発部隊に疑問を感じ、結局SONYをやめた。浜崎はSONY退社前、ISSCCの論文委員をしており、その技術

内容に関してもいろいろ浜崎から組織を超えて相談を萩原は相談を受ける、中研時代からの古い友達だった。浜崎はSONY

退社を決心した時、ISSCCの論文委員の仕事を引き継いでほしいと萩原に頼んだ。



いろいろな面で越智は、萩原に助けてもらうことを良きとせず、彼の著書や社内技術書のはまったく萩原の貢献を示す記述は

ない。その後、特許裁判で勝利しても、越智の技術報告書や著書には、萩原の重要な貢献を引用した記述は全くない。しかし、

SONY社内ではいろいろと萩原の貢献を示す証拠が今でも残っている。萩原は今までそれを公開したことはなかったので、

萩原の貢献は完全にSONY社内からも忘れ去られることになってしまった。







この2000年度のSONY特許1級最優秀賞(特許134985) の前にも、別件で、1996年度にも、

萩原は、SONY特許1級最優秀賞(特許1654617) を受賞している。ともに本来は pinned

photo diode の超感度、低雑音、低暗電流の特徴を持つのは当然として、それ意外にも、

縦型 OFD の機能が自動的に装備された構造であることに萩原は注目していた。


萩原が受賞した2000年度のSONY特許1級最優秀賞(特許134985) では過剰信号電荷の吐き出し機能を特徴とした。


萩原はこれ以外にも1996年度のSONY特許1級最優秀賞(特許1654617) を受賞していた。外部制御電圧を使って、

過剰信号電荷の吐き出し制御を行い、ガンマ―補正機能付き受光構造を実現していた。これで CCD image sensor

の dynamic range を大幅に改善することができた。萩原がOFD機能を外部電圧制御するという基本動作をすでに

1975年の萩原特許の発明の時に考案していたが、その具体的な application の1つを、1977年に萩原が考案して

いるが、なぜかその筆頭がいつの間にか、越智、橋本、萩原として特許登録された。


1975年萩原発明の、 thyristor 構造を特徴とする SONY original HAD sensor は、すなわち VOD 機能付き 

pinned photo diode は、 さらに可変速電子シャッターとしても期待されるもので、有能な半導体受光素子構造だった。


しかし、萩原がその説明を特許の有効性を示す特許詳細説明文に追加することは許されなかった。


当時は、 computer の programing も、半導体集積回路の layout 図面でさえも know how と考えられ、

特許と認められることがない、技術者が保護されない悲しい時代だった。萩原もその悲しい技術者の一人だった。



後に萩原がCCD部隊から外れた後、CCD開発TOPの越智は、単独で、可変速電子シャッターを最初の考案者である

萩原と情報シェアすることなく、こっそり単独特許(特許第1522884号、特許1615692号)を申請した。そして、ずいぶん

後になるが、1996年に当時の半導体TOPの越智は、社団法人日本発明協会から全国発明表彰を越智単独で受賞した。


萩原発明の SONY HAD sensor は、もともと、 thyristor 型 埋め込みOFD機能付き半導体受光素子構造であり、

萩原の1975年の発明であり、そのOFDの動作を外部電圧で制御して、(1) 過剰電荷の掃き出し (2)ガンマ補正による 

dynamic rangeの増大 (3) 高速電子shutter 機能による、高速 action picture の撮像を可能にすることは、1975年

萩原がHagiwara Diodeを発明した時には、萩原は当然構造体の動作は Knowhowに所属し、簡単に専門家なら推測、

類推が可能であり、ことあるごとに萩原は、Hagiwara Diode の将来性を述べていたが、その内容を理解した技術者は

いなかった。次第、 1975年萩原が発明した Hagiwara Diodeそのものが、SONYのCCD開発技術者の中に覚えている

ものはいなかった。


当時、萩原は一人で、SONYの開発部隊が手がける CCD image sensorの設計を全機種、担当していたが、 当時のCCD

開発部隊が全力投球で試作をしていた透明電極で横型OFD搭載の ILT CCD は、プロセスが複雑で、欠陥のない 大口径の

image sensorの試作は難しい、本命になり得ない、ダメだと萩原は主張していたが、完全な一人の技術者の「つぶやき」程度に

とられ、当時のCCD開発部隊のTOPは聞く耳を持つものはいなかった。



そのことを萩原は中央研究所を訪問していた岩間社長に直接話したこともあった。


そのことが当時のCCD開発部隊TOPのは面白くない話だった。反対に、萩原が発明したthyristor型受光構造は難しすぎる

として、その試作検討構造として採用することを、当時のCCD開発のTOPは拒否し、興味を持つこともなかった。


しかし、NECの寺西チームが 1982年に IEDMで buried photo diode搭載の ITL CCD  imager の原理試作を

発表した時、今まで、当時のCCD開発のTOPが本命とした、 透明電極で横型OFD搭載の ILT CCDは、やっと断念し、

萩原が発明したthyristor型の受光構造の開発にSONYのCCD部隊は初めて全力投球した。しかし、SONYの担当

技術者はそれがNECの発明だど信じていた。萩原1975年特許は当時完全にCCD開発責任者TOPのほんの数人しか

記憶になかった。いや、SONY開発担当者は完全に全員当時萩原1975年特許の存在を忘れていたかも知れない。

当然、後からCCD部隊に参加した若手技術者には萩原特許の存在を知るものもいなくと当然だった。


SONYの技術者はその構造が萩原が1975年に発明したものであることはまったく理解されていなかった。


萩原ももうすでにCCD開発部隊から離れ、他の仕事に没頭しており、自分の発明であることを、

当時のCCD開発部隊の技術者に積極的に宣伝することはしなかった。




すべては、1975年の萩原特許が当時としては典型的な構造特許であり、まったくその構造から期待される

いろいろな動作に関する記述がまったくないことによるものである。まだコンピュータのソフトや集積回路の

layout 図などがそのまま特許として認められる時代ではなかった。また半導体素子の使い方、動作に関して

も特許対象とは考えられていない時代であった。発明はすべてその半導体構造とその構造の有効性を

他社にわざわざ教えることは、knowhow と見なされた時代だった。賢い人間ならその構造からいろいろな

半導体物理の教科書や技術文献か公知・周知情報として類推・連想できるものとしていた。



当時は動作説明は knowhow に当たるとして、特許は、その構造から見えるヒントをできるだけわかり

にくく記述することが重要とされていた。萩原が当時の特許担当者とのやりとりで、唯一、主張し特許に

組み込めたのが 信号電荷の蓄積部(N層)の完全空乏化電荷転送の結果である。すなわち、 the empty

potential well の電位曲線図であった。今でもこれが一番重要な動作記述情報である。


当時の半導体TOPの指示では、「構造特許のみを請求範囲に入れることで充分で Know How に

かかわるデバイス構造体の動作は容易に専門家なら容易に類推できるものとして、あまり構造特許には

詳細を記述するな。」という話だった。


しかし、NECの寺西が IEDM で 1975年の萩原発明のHagiwara Diodeを搭載した 1982年に ITL 方式の 

CCD image sensor を発表した。 NECは、1975年の萩原発明のHagiwara Diodeとは認めず、独自に、

buired photo diode と呼んだ。 1975年萩原発明の Hagiwara Diode は P+NPNsub 接合型の半導体

受光素子であるが、構造上、表面がP+層であり、受光信号電荷の蓄積部のN層が、表面になく、P+層の

下にあり、文字通り、埋め込み層の buried photo diode と呼んだ。後に、 世界一般では、さらに別名で、 

上層部の P+ が floating ではなく外部電圧で固定されているので、 すなわち、 pin 留めされているので、

 pinned photo diodeと呼ぶ様になった。


これらはすべて萩原1975年発明の Hagiwara Diode 、P+NPNsub 接合型の半導体受光素子である。


NECの寺西が IEDM で 1975年の萩原発明のHagiwara Diodeを搭載した 1982年に ITL 方式の 

CCD image sensor を発表した後、SONYではあわてて、後追いで、今まで、1975年の萩原発明の

Hagiwara Diodeを無視して、その開発を反対していた、SONYのCCD開発TOPの越智の態度も180度

変換せざるを得なかった。当時SONYの開発部隊TOPの越智とは意見が合わず、萩原はすでに

CCD部隊を去っていたが、中央研究所から優秀な技術者で萩原の友人だった浜崎が、入れ替わり、

越智のCCD部隊に入った。萩原の技術とKnowHowを、萩原は喜んで浜崎に継承した。浜崎が

萩原の代わりに、萩原の夢を、越智のCCD部隊で実現してくれるからである(笑顔)。


さらに、後輩の米本も越智のCCD部隊に入り、1975年に発明した Hagiwara Diode 、P+NPNsub

接合型の半導体受光素子は急速に今までのKnowHowの蓄積もあり、すぐに原理試作が完成し、

 HAD sensor として商標登録され事業化を展開し市場を独占した。


この際、NECから SONY HAD sensor は NECの寺西特許が先行すると主張され、

SONYのCCD部隊は困った状態になった。そのころには、CCD開発TOPの越智をはじめ、

浜崎も米本も含め、SONYのCCD開発技術者の間では、萩原が 1975年に発明した 

Hagiwara Diode 、P+NPNsub 接合型の半導体受光素子の発明特許の存在は完全に

知らされることもなく、忘れさられていた。萩原もそのころには、CCD開発から離れ、

米国 Fairchild社との特許戦争や、NECとの特許戦争に関しては、社内の友人からは

うわさ話をして聞くことはあったが、公式には萩原はCCD開発部隊からは部外者として

社内の事情の報告を受ける立場ではなかった。あまり、萩原はその特許戦争の内容を

教えてもらえなかった。最初に萩原に特許裁判の存在を教えてくれたのは、萩原の母校

の先輩のProf.Bob Bowerであった。SONY側の技術擁護弁論の為SONYが雇用していた

社外技術専門家だった。最後は特許担当者が萩原自身に組織を超えてアドバイスを

求めてきた、初めて萩原は事の深刻さに気が付いた。しかし、結局、萩原が 1975年に

発明した Hagiwara Diode 、P+NPNsub 接合型の半導体受光素子の発明特許の存在

のお蔭て、米国 Fairchildとの戦争にも、NECとの特許戦争にも SONYは勝利した。







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これは70歳じじいのぶつぶつぼやきの独り言でした。

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The AIPS image sensor watching at its inventor, Yoshiaki Hagiwara.

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