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hagiwara-yoshiaki@aiplab.com
Block 01 ..... Introduction
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毎朝6時前から1時間、自宅のそばの小川沿いや野道を Walking。
毎朝、健康のために、妻と萩原は歩いています。
その時に萩原が撮った写真と妻の絵手紙です。
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「賢い電子の目」が、その発明者である、もとSONYの萩原良昭を見ています。
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70歳のじじいのつぶやきです(笑顔).
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萩原1975年特許 ( pinned photo diode Patent 1975) の解説
萩原1975年特許 ( pinned photo diode Patent 1975) の原文
萩原1975年特許( pinned photo diode Patnet 1975 )の画像
https://patents.justia.com/inventor/yoshiaki-hagiwara
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SONY original HAD sensor にまつわる特許戦争のお話です。
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SONYがはじめて商品化に成功した CCD image sensor は 1980年に全日空のジャンボ機の
コックピットに搭載されたもので、萩原が設計した two chip タイプの CCD image sensor でした。
ジャンボ機の離着陸の大きなショックにも耐える信頼性の高い固体撮像素子の実現として世界は
注目しました。しかし、この成功が逆に新しい挑戦に対してはSONYを消極的にしてしまいました。
1975年2月20日に萩原はSONYに入社しましたが、その当時、SONYのCCD開発部隊では、この透明電極を使ったILT CCD
image sensorが本命として開発されていました。しかし、その受光部は透明電極という異質の材料を使い、プロセスの歩留まりを
悪化し量産には向かないものでした。画像欠陥が多く発生し、なかなか無欠陥 CCD chip を造ることは難しいでした。また強い光
により生じる過剰電荷を掃き出すoverflow drain構造として、横型を採用しており、受光部の有効面積がそのぶん減少し、光感度
の劣化を招いていました。また、受光部構造は、CCDと同じくMOS容量型の為、半導体界面には強い電界が生じ、受光部での
暗電流やtrap雑音が発生し、微妙に画像の劣化を招いていました。
しかし、「これ以上の改善は難しい。」と当時のSONYのCCD開発部隊のTOPはこれを本命として事業化を真剣に考えていました。
その中で、萩原はSONYで一人その開発方針に疑問を感じていました。しかし、対案が無い限り、現状を否定することは消極的な
意見で、積極的な、協力的な態度とは言えません。悪口を言っているだけに聞こえます。
何かもっといいアイデアを出さねばならなりません。萩原は1975年11月10日にSONY入社して初めて。日本語特許を出願しました。
この萩原が1975年に発明した半導体受光構造素子(人間の目でいうと、その網膜細胞に相当するもの)は、現在、世界では一般に
the pinned photo diode と呼ばれるものです。SONYでは商票登録し、SONY original HAD sensor
と呼んでいるものです。
当時はあまり特許権利を武器に、他社の事業化を邪魔したり、特許から高額の特許料を請求することなどは特別な場合以外、
ほとんどなかった温和な時代でした。ライバル企業間ではお互いの自社の特許を交換し、両者が顧客により良い商品を提供する
ことに専念できる時代でした。企業間は温和な協力関係にあり、SONYも同様で、萩原1975年特許は単純にアイデア特許として、
SONYが事業化する場合、自社の事業化を防御する特許としての期待されるものの、、外国特許出願するまでには、萩原もSONYも
まったくこの特許がそれほど重要なものとは、その必要性を感じていませんでした。それが結果として悪さをして、現在に至ります。
この特許の存在はSONY社内でも海外でもまったく知られることのない長い時期を迎えることになってしまいました。しかし、この
1975年の萩原特許が超感度・低雑音・低暗電流でかつ残像のない高画質のデジタルカメラの実現を今でも可能にしているものでした。
SONYがはじめて商品化に成功した CCD image sensor は 1980年に全日空のジャンボ機のコックピットに搭載されたもので、
萩原が設計した two chip タイプの CCD image sensor でしたが、ジャンボ機の離着陸の大きなショックにも耐える信頼性の
高い固体撮像素子の実現として世界は注目しました。しかし、この成功が逆に新しい挑戦に対してはSONYを消極的にしました。
この透明電極を採用した受光構造は、MOS型の受光構造です。しかし、このMOS型の受光部では、半導体界面に強い電界が生じ、
強い電界による暗電流や界面の捕獲準位の存在によるTrap雑音が発生して、画像に雑音が増加し、画質の劣化を招きました。
当時の古典的な MOS 型 image sensor は、MOS型受光構造でなく、表面が単純に酸化膜で保護されたN+P接合容量型の
受光構造でした。当時の古典的な MOS 型 image sensor は、単純にデジタル回路用のMOS プロセスで製造されており、
歩留まりは悪くはありませんでした。無欠陥のMOS 型 image sensor を造ることができましたが、また、MOS 型 image sensor は
光感度と色再現性はまあまあでしたが、残像の多い画像でした。原因は、受光部にN+拡散層を使っており、BBD転送 modeで
動作して、 CCDの様な完全空乏化電荷転送動作は不可能でした。また信号読み出しの output bit line 容量が大きいのが原因で
CkT 雑音が大きく、無視できませんでした。
そこで、CCD受光構造特有の完全空乏化電荷転送の結果成し得る「残像なし」の特徴を当然これからも維持しつつ、さらに、透明
電極を使わない方法はないかと萩原は思案しました。 当時のMOS image sensor は、NP接合型のphoto diodeをそのまま受光
構造素子としていました。萩原はそれを改良した構造ですが、そのNP接合型のphoto diodeをまま使う部分構造として使うことに
しました。その改良点ですが、まず、受光部をN+P接合とせず、埋め込みチャネルCCDの埋め込み層の薄い濃度(N)を使った
NP接合構造として、埋め込みチャネルCCDの埋め込み層と同じ濃度としました。埋め込みチャネルCCDの埋め込み層の場合と
同様に、完全空乏化電荷転送がこの濃度(N)を薄くしたNP接合型の受光構造とすればいいのではと萩原は考えました。
しかし、それでもまだ完全でないと萩原は考えました。その理由は、まだ、半導体界面には、強い電界がかかる事になるので、
暗電流や半導体界面に存在する捕獲順位による trap 雑音はまだ存在するので、これでも完全ではないと萩原は考えました。
そこで、萩原は 1971年と1973年の夏休みにSONY厚木工場で自習したことを思い出しました。
当時(1971年~1973年)のSONY厚木工場では、カラーテレビ用信号処理用 bipolar transistorの集積回路の量産体制が、
米国 TI社との特許ライセンス提携のもと、確立しつつある時期でした。萩原はそこで実習生として、 bipolar trasistorの
集積回路(IC)の不良解析を担当していました。具体的には、bipolar transistorの誤動作の原因の Latch-up 現象を学習し、
これは本来、P+NPNsub 接合(サイリスタ)構造の punch-thru の現象であることを理解しました。
萩原はそのことを思い出だし、その経験をヒントに、このP+NPNsub 接合(サイリスタ)構造の受光構造 ( the pinned photo
diode )
の発明に至りました。 この萩原が1975年に発明した半導体受光構造素子(人間の目でいうと、その網膜細胞に相当するもの)は、
現在、世界では一般に the pinned photo diode と呼ばれるものです。SONYでは商票登録し、SONY original HAD
sensor と
呼んでいるものです。NECの寺西チームはではIEDM1982でこの萩原1975年発明の受光構造を採用した ILT CCDを発表
しました。NEC考案の独自構造として the buried photo diode と名付けましたが、その構造は、萩原1975年発明の受光構造と
まったく同一のものです。
(1) Hagiwara 1975年発明の Hagiwara Diode(自称)は、
SONY original HAD sensor のことであり、また、
世界一般に pinned photo diode と呼ばれるものは同じものです。
ほかにも、 buried photo diode とも呼ばれる事態を複雑にしています(大涙)。
(2) Hagiwara 1975年発明の Hagiwara Diode(自称)は、構造特許として権利化
されています。その期待されるいろいろな動作modeに関してはその特許の
有効性(Know How) と考えられます。また、その半導体素子の構造を明確に
定義されれば、その半導体素子の動作は、半導体物理の教科書は技術資料に
詳細に記述されているので周知情報として特許の説明文に記載する必要は
ありません。その構造を使うこと自体が特許の対象になるわけで、どう使うに
関しては特許の請求範囲外となります。使い方はどうでもいいわけです。その
半導体素子の構造が重要な特許となります。
(3)Hagiwara 1975年発明の Hagiwara Diode(自称)は、単純に P+NPNsub接合
すなわち サイリスタ―構造の半導体受光素子としています。そして、その信号電荷
が蓄積された受光領域(N層)から隣接する電荷転送素子(CTD)に信号電荷を
転送することを特徴とする固体撮像装置です。。そして、その有効性を示す特許詳細
説明用の実施例の図6に、このサイリスタ―構造は 縦型の overflow drain 機能、
すなわち、VOD機能を持ち、また、CCD動作と同様に、完全空乏化電荷転送が可能
である、大変有望な構造であることを示唆しています。具体的には、その信号電荷
が蓄積されていた受光領域(N層)が完全空乏化電荷転送の結果、信号電荷のない、
空の状態になっていることを、特許の図6Bに the empty potential well の電位曲線
として描いています。
(4) このHagiwara 1975年発明の Hagiwara Diode(自称)は1978年には FT CCDに
採用され、SONYは岩間社長が東京で、盛田会長がNew Yorkで記者会見し、
超感度高性能の家庭用小型ビデオカメラの幕開けであることを宣言しました。
当時はまだ SONY original HAD sensor という商標も、pinned photo diodeという
名前は存在しませんでした。しかし、1975年発明の Hagiwara Diode(自称)は、
今も裏面照射型の超感度CMOS image sensor にも採用され続けています。
(5) 1982年になると、NECの寺西さんが IEDM1982に世界で初めて、このHagiwara
1975年発明の Hagiwara Diode(自称)を採用した ILT CCDの原理試作を
国際学会で発表しました。しかしこれはあくまで原理試作です。SONYはすでに
このHagiwara 1975年発明の Hagiwara Diode(自称)の原理試作は1978年に
実現しています。 SONYは 1984年遅れること2年で、Hagiwara 1975年発明の
Hagiwara Diode(自称)搭載の ILT CCDの量産技術を確立し、また、SONYは
SONY original HAD sensor として商標登録して市場を独占しました。水面下で、
NECとSONYは長年に渡り、この1975年SONY萩原発明の Hagiwara Diodeと
NEC 寺西1982年特許( buired photo diode ) の間で特許戦争がありましたが、
最終的にSONYの勝利となり、敗れたNECはビデオカメラ市場から撤退することに
なりました。自社特許がいかに重要であることを物語るものでした。
(6) SONYが今では 世界の image sensor の市場の6割以上を独占する勢いとなり、
その image sensor単体のみの売上売り上げだけでも1兆円以上規模になりました。
最高の性能は自社の特許だけではカバーできません。多くの他の企業や研究機関の
技術者との連携と彼らの知恵(特許)も最高の製品の追求には不可欠です。しかし、
それも自社で一番強力な特許があってのビジネスの世界の話です。それが萩原が
1975年発明した自称 Hagiwara Diode 特許です。SONYは長年、このHagiwara Diode
に関する特許戦争で苦労をしてきました。まず、1991年から2000年に渡る米国 Fairchild社
との特許戦争がありました。
この米国 Fairchild社とSONYの、埋め込み overflow drain 構造に関する特許戦争での最大の問題は、
Fairchild社の特許 (Early Patent)が1975年7月22日出願で、一方、SONYの特許( Hagiwara Patent)は
1975年11月10日出願で、数か月先行しており、Fairchild社が先願特許と位置付けられたことでした。
その為、この2つの特許の構造の違いと、その特徴の違いを詳細に、特にそのVOD構造の違いを技術的に
半導体物理や半導体素子の動作原理を理解していない裁判の陪審員や審査官にどう説明できるかが最大の
問題でした。SONY側の技術擁護弁論者として、当時 UC Davis の教授の Prof. Bob Bowerに高額の
依頼費をSONYは出していました。偶然にも Prof. Bob Bowerが Caltechの卒業生で、萩原の先輩である
ことが判明し、初めて、Prof. Bob Bowerからの連絡で、米国 Fairchildと SONYの特許戦争の話を非公式に
萩原は知りました。萩原はすでにSONYでは image sensorの仕事はしていませんでしたので、SONY内部
としては極秘事項なのでその裁判の詳細を知る余地はありませんでした。しかし、その特許戦争の対象となる
のは萩原が1975年に出願した萩原特許( Hagiwara Diode ) と Early Patent の本質の違いを明らかにする
ことでした。当時、萩原は ISSCCなど国際学会出席のついでに、UC Davis 勤務のProf. Bob Bowerの自宅
を訪問し、いろいろ非公式に、日本語で書かれた萩原特許( Hagiwara Diode ) について Prof. Bob Bowerに
その詳細と背景について説明しました。
萩原はその裁判の外の人間でした。SONYは、萩原の存在自体を裁判の流れにどう影響するか不安でした。
最悪の場合、感情論となり、「萩原はもと米国の留学生で米国から知識を米国から持って帰った、いや盗んだ
悪人だ。」と陪審員が感じ取る危険性もあったわけです。でもいずれ、SONY保有特許が萩原の発明で、
萩原が誰なのかは隠していてもいずれは暴露されることは明白でした。SONYは裁判で最後の最後まで
萩原の名前を出しませんでしたが、最後にFairchild側からの質問で、その日本語特許の出願者がかつて、
米国留学生でCalTechの卒業生であることを、Prof. Bob Bower は明らかにしました。
それも Faichild社創設者の Dr. Gordon Moore の母校のCalTechの後輩で、Dr. Gordon Moore が、
Fairchildを去った後、新たに設立した Intel社とも、密接な産学共同プロジェクトで、萩原が深く関係して
いることを知り、その偶然に裁判関係者は驚きの顔を隠せませんでした。
しかし、その結果は、どうしたことか、陪審員はFaichild社の主張を認めた判定を下しました。
その結果は、SONY側からの人間から見ると、誰が見ても意外で、論理性がない、感情論といって
いいものだったと記憶します。やはり、萩原が米国留学生だったことが最大の問題だったのか?
しかし、萩原はそれではあきらめられませんでした。萩原が出願した特許は、米国で学んだことで
出願したものではない。萩原が1971年と1973年にSONY厚木工場で、 Bipolar Transistorの
製造ラインで、宇野さんや小笠原さんや中野くんたちから教えてもらった、カラーテレビ用の
Bipolar Transistor集積回路の信頼性の問題、すなわち、サイリスタ―動作の punch-thru の
問題をヒントに、考案したのが1975年の萩原特許( Hagiwara Diode ) である。
1975年2月20日の途中入社扱いで萩原が、SONY中央研究所に配属された時、開発部隊の
先輩だった山崎さん、山中さん、名雲さん、西村さん、中田さんから、CCD image sensorを
使ったカメラシステムの特性をいろいろ教えてもらった時に、CCDでは色再現が悪く、致命的で、
当時残像はCCDはなかったが、残像が問題のMOS image sensorの方が色再現がいいと
教えてもらった。CCDは受光部には適さないと教えてもらった。それで、受光部にはやはり当時の
MOS image sensor と同じく、 N+P 接合型がいいと萩原は理解した。しかし、するとCCDの良さ、
完全空乏層電荷転送による残像なしの特徴が実現できなくなる。それをどう解決するか、その
ためには、埋め込みチャネルCCD型と同じく、N-P 接合型の受光構造がいい、しかし、埋め込み
チャネル型は trap 雑音は回避できたが、酸化膜界面の電界がかかるので表面結合電流が増加し
受光時間に暗電流が発生し、これが暗電流雑音となる。この、N-P 接合型の受光構造でも不完全で
ある。そこで、萩原は思い出した。萩原が1971年と1973年にSONY厚木工場で、 Bipolar Transistor
の製造ラインで、宇野さんや小笠原さんや中野くんたちから教えてもらった、カラーテレビ用の
Bipolar Transistor集積回路の信頼性の問題、すなわち、サイリスタ―動作の punch-thru の
問題を思い出した。それをヒントに、考案したのが1975年の萩原特許( Hagiwara Diode ) である。
CCD型受光部の最大の問題点、金属性電極による光感度の問題を解決するために考案したのが、
サイリスタ型の、P+NPNsub 接合型受光素子構造( Hagiwara Diode ) の発明だった。米国で萩原が
学んだ知識だけはないと萩原は自信をもって言えた。
実は1972年に CalTechで Prof. C.A. Meadの指導のもと、Computerの検索エンジンに不可欠な
集積回路 silicon chip として、128 bit のdata stream を高速並列処理比較回路 ( 128 bit data
comparator silicon chip ) の集積回路を 当時の Intel の標準プロセス製造ラインで試作し、
大学(CalTech)に持ち帰り、評価し動作確認し、Intel社の技術者(Caltechの萩原の先輩)と連名で、
IEEE Journal of Solid State Circuits (1976年)に産学協同論文として投稿していました。
萩原はいろいろな国際会議の論文委員として奉仕していたことが幸いし、多くの他社の技術者との
交流も深く、連絡を取り合い、いろいろ意見を聞き、アドバイスをもらい、それを Prof. Bob Bpwerに
feedback して、SONY側の技術養護弁論をProf. Bob Bpwerに託していました。
この米国 Fairchild社とSONYの特許戦争でやっとSONYは勝利し、萩原は、大賀会長、出井社長ほか、
当時のSONYのTOPの方々から労いの言葉をいただいています。萩原はただ自分の誇りを守るために
努力したのみです。自分がこの特許の発明者であることを証明するために努力しただけで、SONYからも
誰からもお金は全くもらっていません。
(7)この米国Fairchikd社とSONYの特許紛争ではSONYは勝利しましたが、当然、SONY一社の技術者の
特許だけでは到底最高の商品を自社開発することは不可能です。多くの他の企業の技術者との連携や
彼らの知恵(特許)も使って初めて最高の商品が顧客に提供することができます。小さな特許では付属
特許として、派生特許としてどこの企業でも他社に特許料を支払うことはあります。SONYも同様です。
しかし、主力商品の重要特許に関してはやはり自社で特許を保有していないと、なかなか大きく事業
展開は難しいです。 SONYは今では 世界の image sensor の市場の6割以上を独占する勢いとなり、
その image sensor単体のみの売上売り上げだけでも1兆円以上規模になりました。最高の性能は
自社の特許だけではカバーできません。多くの他の企業や研究機関の技術者との連携と彼らの
知恵(特許)も最高の製品の追求には不可欠です。しかし、それも自社で一番強力な特許があっての
ビジネスの世界の話です。それが萩原が1975年発明した自称 Hagiwara Diode 特許です。
SONYは長年、このHagiwara Diode に関する特許戦争で苦労をしてきました。まず、1991年から
2000年に渡る米国 Fairchild社との特許戦争がありました。またNECとSONYの間では水面下で、
同じHagiwara Diode に関する特許戦争がありました。この2つの大きな特許戦争の勝利を得て、
萩原もやっと1975年発明の自称 Hagiwara Diode 、 SONY original HAD sensorの生みの親で
あることがSONY社内でも公式に認められました。それまでは特許戦争の行方が不透明で社内でも、
1975年の萩原特許の存在は社内でもあまり公表されず、 image sensorの開発技術者の間でも、
萩原1975年特許の存在は知られていませんでした。また社内で特許褒賞を受賞しても特許番号だけで、
その特許の詳細内容は社内でも公開されておらず、社内のほんの数人の特許関係者以外は、この
萩原特許の詳細を理解している社内技術者は、ほとんど皆無でした。その理由は、もう1975年特許
と古く時効で、特許効力・市場価値がない「終わった人の特許」と見なされていたからでした。
しかし、それでも、SONY社内で初めて公式に、SONY original HAD sensor が 萩原の1975年の発明
であると認められた瞬間でした。
この意外な事実を初めて知った、社内の image sensorの開発技術者は、驚いた様子でした。
重要な技術情報が社内で詳細に共有されていなかったことに疑問を感じた若い技術者もいました。
やはり、特許が公開されたものに関しては、社内社外の特許に関わらず、担当の開発技術者が
全員情報共有する必要があると萩原は実感しました。お互いに、先人が出した特許を学習し、
さらにそれを超える特許を出す勉強会などをもっと奨励することの大切さを感じた若者もいました。
それまでの秘密主義の image sensorの 技術管理TOPの態度に疑問を持つものもいました。
一般論ですが、技術管理者(課長や部長職)は部下の特許を把握し、それをヒントに部下に内緒で
自分の部下のアイデアを盗み、ヒントにして、勝手に課長や部長が特許を出願し、その部下が生意気で
邪魔になると、その部下を首にして職場を移動させることも可能です。 特許は 2~5年の間公開される
までは極秘扱いであることをいいことにして、その間にいろいろ派生特許も出せる立場にあります。会社
としては誰が発明しようがまったく関与せず、会社の所有であることには違いないので、それ以上は深く
事実関係を追求しません。特許が 2~5年後、公開される頃には、もうその部下も職場におらず、その
課長や部長が出願した特許の存在を知る余地はありません。そういう悲しい状況が生まれる危険が、
情報シェアされない職場にはあると萩原は当時実感しました。
しかし、その後、SONYの多くの技術者開発者の努力が報われ、現在 SONYは世界のimage sensor の市場の
6割以上を独占する勢いとなり、これからもさらなる発展が期待されています。
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Please judge yourself if the story is a truth or a fiction ?.
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Story of Sony original HAD sensor (1)
More Story (1) , Story(2), Story(3)
Story of Sony original HAD sensor (2)
Story of Sony original HAD sensor (3)
Story of Sony original HAD sensor (4)
Story of Sony original HAD sensor (5)
Story of Sony original HAD sensor (6)
Story of Sony original HAD sensor(7)
Story of Sony original HAD sensor(8)
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毎朝6時前から1時間、自宅のそばの小川沿いや野道を Walking。
毎朝、健康のために、妻と萩原は歩いています。
その時に萩原が撮った写真と妻の絵手紙です。
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デジタル回路の世界
補足資料(Appendix)
(おまけ) 高校生数学でわかる雑学相対性理論
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ISBN 978-4-88359-339-2 C3055
本体 9000円+税
B5サイズ 上製 475ページ (ハードカバー)
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書籍の出版社の紹介
TEL: 042-765-6460(代) 青山社
https://www.seizansha.co.jp/ISBN/ISBN978-4-88359-339-2.html
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