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hagiwara-yoshiaki@aiplab.com
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Story of Pinned Photo Diode
Hagiwara at SONY is the true inventor of Pinned Photo Diode
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毎朝6時前から1時間ほど、お天気がいい日は、
自宅のそばの小川沿いや野道を Walking。
毎朝、健康のために、妻と萩原は歩いています。
その時に萩原が撮った写真と妻の絵手紙です。
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●荻野中学校の10月の絵手紙はこちらをclick してください。
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賢い電子の目 ( pinned photo diode ) が、その発明者である、もと SONY の萩原良昭
を見ています。光を電気信号に変換する、人間の目の網膜細胞に相当する発明のお話です。
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70歳のじじいのつぶやきです(笑顔)。
Story of Pinned Photo Diode
Pinned Photo Diode Patent by Hagiwara in 1975
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半導体産業人協会主催の2つの秋季半導体技術講座の紹介です。
(1)2018年11月1日~2日開催の半導体入門講座の案内
2018年度 秋季入門講座カリキュラム詳細版
(2)2018年11月5日~6日開催の半導体ステップアップ講座の案内
2018年度 秋季ステップアップ講座カリキュラム詳細版
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著書に 「人工知能を支える、デジタル回路の世界」
ISBN 978-4-88359-339-2 C3055 青山社 出版、
ハードカバー 475ページ、\9000 + Tax があります。
是非、購入してお読みください。
半導体素子の基本物理動作からその応用回路まで
やさしく解説しています。文系の方でも読みやすい
ように工夫し、むずしい数学のバックグラウンド知識
がなくても、容易に直観的に誰でも理解できるように
わかりやすい解説図を本書には多く用意しています。
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Yoshiaki Hagiwara, Ph.D. IEEE Life Fellow、
the inventor of Pinned Photo Diode ( SONY HAD sensor )
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(1) 萩原良昭の自己紹介です。
(2) Pinned Photo Diode とは?
(3) デジカメは何でできているのか?
(4) Pinned Photo Diode はもとSONYが萩原が1975年に発明しました。
(5) 半導体まめ知識 PPDとは?
(6) 1975年萩原考案の2つの日本語特許の詳細を説明します。
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(7) 1975年萩原考案の2つの日本語特許の意義を説明します。
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現在、世界ではもはやCCD image sensor は短命で、CCD image sensor より
超高解像度で超感度で低雑音でかつ低暗電流で消費電力も少ない、
CMOS image sensor が主流になっています。
それはどうしてでしょうか?
実は、もともと CCD 型の電荷転送方式は、CMOS プロセス技術の微細化技術の
進歩に負けて、完全に消えることになったのです。
今では、CMOS型の電荷転送方式が主流になり、
CMOS image sensor と 一般に呼ばれるようになったのです。
それでも、CCD型の電荷転送方式は完全空乏層化電荷転送という、
新しい動作原理で機能する半導体素子の発明です。
これは、半導体物理学の分野で、重要な発見と発明です。
半導体物理の分野ですばらしい発明で、ノーベル賞ものです。
CCD型は本来電荷転送用MOS型容量電極が隣接して、
複数個一列に並んだアナログ信号電荷転送用のshift register です。
しかし、本質的、いや致命的な欠点があり、なかなか、実用化が困難で、
ビデオカメラへの応用にSONYは苦労しました。
世界中の他の会社が、民生用のビデオカメラへの応用は難しいと
あきらめていた頃、SONYは世界でただ一社で頑張っていました。
歴史は繰り返すと言いますが、SONYは1947年にトランジスタ―が
発明されたときも、それを小型トランジスターに応用しようと頑張りました。
SONYの創設者の井深さんと、技術系経営者である井深さんの下で、
また技術畑出身者で、地球物理学者だった 岩間和夫さん は、
1954年の冬2人で渡米し、米国のベル研を訪問し、有名なトランジスタの
基本技術特許の使用権を、当時のお金で500ドル(~18万円)で、
購入しました。戦後すぐで外貨のなかった日本にとって大きなかけでした。
このトランジスタの発明の価値が理解できなかったのか、通産省からは、
なかなか外貨使用許可が降りなかった、と井深さんはよく嘆いていました。
井深さんとの訪米中、岩間和夫さんは、ベル研訪問の後、ベル研の技術者
の紹介で、Pennsylvania 大学で開催された、第1回目の半導体集積回路
についての国際会議、今で言う、ISSCC1954 に出席しました。
世界中の企業からは冷たい目で、「あんな量産技術も確立しない、また、
生産が難しく、採算が取れないトランジスタを大量生産して売るなんて、
馬鹿げている。」と、あざ笑われる異端児ベンチャー会社のSONYでした。
SONYの役員で、技術担当最高責任者だった岩間和夫さんは、帰国後、
岩田三郎さんという勤勉で優秀な部下と一緒に、トランジスタの動作原理や
半導体基礎物理、半導体基本素子構造などを有志技術者とともに学び、
ベル研からは、なにも詳細を教えてもらわないで、トランジスタの試作に
挑戦し、独力でSONYの技術者陣はトランジスタ生産技術を確立しました。
「トランジスタ―という半導体素子の存在定理を証明した。」と大喜びでした。
「完全なものが一個できれば、必ず二つできる!」という信念がありました。
岩田三郎さんの開発部隊は、トランジスタの生産技術の確立を確かなものに
するために、生産舞台を、ソニー厚木工場に移し、やがて、ソニー厚木工場は
当時世界最大のトランジスタ量産工場になりました。
そして長年の努力が実り、トランジスタの生産技術の確立に成功し、SONYは
小型トランジスタラジオを世に出し、その市場を制覇しました。そして、それが
原点となり、今のSONYが生まれた、と言っても過言でありません。
当時の経験を生かして、再度、岩間和夫さんは夢を見ました。
小型家庭用の超感度ビデオカメラの実現の夢見ていました。
当時、SONY USA の会長で、SONY本社の副社長でもあり、
かつ、SONYの技術担当最高責任者だった岩間和夫さんは、
世界の半導体技術開発研究の動向には敏感でした。
毎年、半導体素子とその集積回路の分野で新しい発見と発表が
続いていました。世界最大、半導体素子の国際学会である IEDMや、
またこれも世界最大の、半導体固体素子集積回路の国際会議である
ISSCC が、米国内で毎年開催され、半導体素子とその集積回路の
分野で多くの新しい発見や開発研究発表がありました。
その時、1969年にCCDが再びベル研の技術者により発明されました。
その頃、萩原はまだ CalTech の大学2年生でした。
大学1年生と2年生の2年間を通して Richard Feymann の3冊の
赤い物理の教科書で古典物理と量子力学を学び、その最後で、
量子力学の応用物理として半導体物理を学び、やっと、その基本
半導体素子である、 bipolar transistor の構造と動作原理を
学んだところでした。
大学3年になり、萩原の恩師、Prof. James McCaldin から、半導体物理の
授業で、 Dr. Andrew Grove の著書で初版だった本で、まだ出たての、
Physics and Technology of Semiconductor Devices という題名の本
を使って、MOS transistor の構造とその動作原理を学んだところでした。
当時、まだ Intel 社はベンチャー会社として生まれたばかりでした。
Intel 社は CalTechの卒業生の、Dr. Gordon Moore (萩原の先輩)と
Dr.Robert Noyce が創設した会社ですが、 Intel 社で最初に
雇用された社員が、 Dr. Andrew Grove でした。
その著名な、いや当時はまだ著名ではありませんでしたが、彼の著書を
教科書にして、恩師である Prof. James McCaldin から、半導体物理
の授業を萩原は大学3年生の時受けました。
丁度、1969年で、ベル研でCCDが発明された年でした。
半導体物理の授業担当である Prof. James McCaldin からは、
「この授業を受けた学生は、みんな、CalTechの先輩が創設した
ベンチャー会社、 すなわち、先輩の Intel 社で、夏休みにでも、
アルバイトや実習をし、そのまま、希望するなら、卒業後、Intel社に
入社し、先輩の戦力になって応援してほしい。」と、何度も、授業の
合間に話してくれました。
萩原が大学院に入り、埋め込みチャネル型CCDの動作原理とその
構造解析を自分のPhD の論文のテーマにした時、3人の恩師、
Prof. C. A. Mead 、 Prof. T.C. McGill と Prof. James McCaldinの
3人の恩師の指導を受けた時知ったことですが、3人とも、Intel 社
創設者の Dr. Gordon Moore とは大変親しい間柄でした。
事実、たくさんのCalTechの卒業生が Intel 社に入社し、急成長する
Intel 社の即戦力となり、貢献したことでしょう。
当時、CCDは、未来の半導体メモリ素子でかつ、未来の固体撮像素子
として期待され、学会や学術誌に紹介され、脚光を浴びていました。
当時、SONY USA の会長で、SONY本社の副社長でもあり、かつ、
SONYの技術担当最高責任者だった岩間和夫さんは、世界の
半導体技術開発研究の動向には敏感で、そのCCDの将来性に
ついての話を見逃すわけはありません。
これこそ、トランジスタの発明に次ぐ、未来の民生のビデオカメラの
実現を握る世紀の発見だと思ったことでしょう。
しかし、それは岩間和夫さんの誤解であることは、今では明らかと
なりましたが、学生だった萩原もそう信じて、1975年に CatTechを
卒業後、SONYに入社し、CCD video camera system の研究開発
担当技術者として勤務しました。
しかし、すぐに仲間の video camera の組み立て開発部隊の技術者
から、CCDは感度が悪い、暗電流も多く、消費電力が大きいと苦情
を萩原は受けていました。日立ではもうCCDはあきらめてMOS型
の image sensor に注力しているとも教えてくれました。松下も、
CCD 型の image sensor 一本に絞るには危険と判断し、CCD型も
MOS型の image sensor を開発している様だとも教えてくれました。
このままでは、SONYもCCDをあきらめることになると萩原は不安
になりました。カメラシステム担当の技術者から一言、残像や
clock 雑音が多いが、MOS 型は感度がいいよと萩原は入社して
すぐ教えてもらいました。カメラシステム担当の技術者からは、
どうして宗教の様に、CCDに一本化するのか信じられない、自分
には半導体物理の原理がわからないので、出てくる性能だけで
しか判断できない。CCDから出てくる特徴は期待した程はよくない、
と正直な意見を、萩原はSONYに入社してすぐ仲間の技術者から
聞かされました。
世界中の他の会社が、CCDを使って、民生用のビデオカメラを実現
するのはたいへん難しいと、あきらめていた頃、SONYは世界で、
ただ一社で頑張っていました。
「Blue感度さえ取れればCCDは最高だ。それは将来何とかなるだろう。」
と、ソニー中央研究所の吉田博文室長が先導する情報処理研究室の
技術者陣は、半導体物理もCCDの原理もあまり詳しく知らないまま、
CCDのビデオカメラの試作に専念していました。
萩原1人は、学生時代に PhD 論文のテーマに 埋め込みチャネル型の
CCDの動作解析でそのの動作原理とその半導体素子構造を理解していた。
彼のPhD論文の結論は、特に埋め込みチャネル層に生じる強い電界により、
埋め込みチャネル型CCDでは、同時に高速に埋め込みチャネル層の、
完全空乏化が可能で、信号電荷は転送残りなく、完全残像なし映像が
可能で、高速撮影を必要とするビデオカメラの応用に最適であるという
結論だった。埋め込みチャネル型CCDは、高速完全空乏化電荷転送が
可能であるという結論だった。
しかし、CCDは光感度が悪い。特に、短波長の Blue 感度が悪く、MOS型
の image sensor に、 CCD型のimage sensor は負ける。
どうしたら、CCD型の image sensor を救えるのか?
萩原はSONYに入社して一人悩んだ。
その時にヒントになったのが、1971年と1973年に当時実習に指導員を
担当してくれた宇野義道主任がソニー厚木工場のプロセスラインの
中を案内してくれていた時にいつも言っていた言葉だった。
「大門くん、このプロセスラインは東洋一の半導体量産工場なんだよ!」
萩原(旧姓大門)は、1975年2月にソニー入社して1971年と1973年に
実習し bipolar transistor のプロセス製造・生産・測定一貫技術の
訓練実習を受けたことを思い出した。