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The AIPS ( Artificial Intelligent Partner System ) Home Page 010

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半導体産業人協会主催の2つの秋季半導体技術講座の紹介です。



(1)2018年11月1日~2日開催の半導体入門講座の案内

     2018年度 秋季入門講座カリキュラム詳細版


(2)2018年11月5日~6日開催の半導体ステップアップ講座の案内

    2018年度 秋季ステップアップ講座カリキュラム詳細版

●半導体ステップアップ講座の中で萩原が担当する講座

   「イメージセンサー賢い電子の目」の補足資料 です。


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著書に 「人工知能を支える、デジタル回路の世界」 


ISBN 978-4-88359-339-2 C3055  青山社 出版、

ハードカバー 475ページ、\9000 + Tax があります。

是非、購入してお読みください。


半導体素子の基本物理動作からその応用回路まで

やさしく解説しています。文系の方でも読みやすい

ように工夫し、むずしい数学のバックグラウンド知識

がなくても、容易に直観的に誰でも理解できるように

わかりやすい解説図を本書には多く用意しています。



この書籍の付録(1) 小学生の油わけ算の問題の解法例です。

       付録(2) 中学生数学で解ける特殊相対性理論の解説です。

       付録(3) 半導体まめ知識 [1] 半導体とは?

                        [2] 太陽電池とは?
                 
                        [3] 固体撮像装置とは?

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       Yoshiaki Hagiwara, Ph.D.  IEEE Life Fellow、 

 the inventor of Pinned Photo Diode ( SONY HAD Sensor )

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萩原の母校のCaltech での在学時代、萩原は教授から 

The truth shall you make you free.

という言葉を良く授業で聴かされました。その意味が、
萩原は、この歳、70歳になり、しみじみと感じています。

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萩原良昭の自己紹介

●1948年7月4日に京都市下京区で4人の男子兄弟の次男として誕生。

  幼年時代は京都駅前の百貨店や商店街をぶらつき、
  また近くにある三十三間堂の境内を遊び場とした。

●1961年京都市立紫野小学校卒業。

  小学校時代は、自宅のそばにある、源氏物語の作者の
  紫式部のお墓があり、そのそばの公園や船岡山の公園で遊ぶ。
  近所の大徳寺の境内や左大文字も当時は入山可能でよく登った。

●1964年京都市白梅町近くにある洛星中学を卒業し、洛星高校に進学。

●1965年高校2年の時、渡米の為、洛星高校に中退し、
  米国のカリフォルニア州Riverside市の市立技術専門高校の
  Riverside Polytechnic High School にそのまま高校2年生として編入。

●1966年高校3年の時、飛び級でRiverside市の市立の短期大学の 
  Riverside City College で 大学2年生の数学の授業を受講する。

●1967年Riverside市から車で一時間の距離のPasdena市にある、
 カリフォルニア工科大学 ( CalTech ) に進学。

●1971年カリフォルニア工科大学卒業。BSの学位を取得。

●1971年の夏、6月から9月まで神奈川県厚木市にあるSONY厚木工場にて
  カラーテレビ用の信号処理用 Bipolar Transistor のIC生産ラインで実習。
  Bipolar Transistor のプロセス技術とそのICの信頼性技術を学ぶ。

●1972年カリフォルニア工科大学院修士課程卒業。MSの学位を取得。

  世界で初めての産学共同プロジェクトで、CalTechの Prof. C.A. Meadの
  開発研究チームに萩原も参画し、デジタルMOS集積回路を設計し、
  Intel 社の最新のMOSプロセスラインで試作した。その成果は、後に、
  IEEE Journal of Solid State Circuits に、128 bit multicomparator と題して
  論文発表した。萩原はここでデジタルMOS集積回路の設計技術を学んだ。

  


●1973年の夏、6月から9月まで神奈川県厚木市にあるSONY厚木工場にて
  Vertical Junction FET (VFET)のプロセス技術とそのICの信頼性技術を学び、
  自らBipolar Transistor 回路を設計して、そのVFETの評価ボードを作製した。

●1974年2月米国 Philadelphia で開催の半導体集積回路の最大の国際会議の
  ISSCC1974にて、当時非常に脚光を浴びていた、また萩原の PhD 論文の
  テーマである、埋め込みチャネルCCDの物理動作解析の数値計算モデルと
  その大型IBM360 計算機の計算結果を、Caltech のジェット推進研究所(JPL)
  にある、惑星探索用の特殊動画作製装置を使い、36ミリフイルムに焼き付け、
  Pasadena市のお隣りにある Holywoodの映画会社で16ミリフィルムに落とし、
  7~8分の世界初めての半導体デバイス埋め込みチャネルCCDの動画映像を
  Philadelphia のホテルで開催のISSCC1974の大会場(2000人以上)で放映した。

  しかし、このころにはもうすでに Intel 社は CCDは大容量の充放電で消費電力
  が大きく、さらに転送効率にも限界がありCCDのメモリ素子としての商品化を断念
  していた。Intel社は、萩原の大学(CalTech)の先輩で、PhD論文の指導官で恩師 
  の Prof. C. A. Meadとは、同じ大学(CalTech)の同窓生で、また友人同士である、
  Dr. Gordon Mooreの設立した会社である。Dr. Gordon Moore は、その前に、
  Fairchild 社を創設し、その後、さらに Intel 社を創設し、3 transistor 型の
  active source follower 型の増幅型の DRAM cell を採用した Intel 1101 chip
  を開発商品化し、その後、 Intel Processor で世界成長と成し遂げた会社である。


  

●1975年2月にCalTechでの博士課程の最終論文の口頭試験をパスしてすぐSONYに入社。
  横浜にあるソニー中央研究所の情報処理研究所(吉田博文室長)のCCD設計評価部隊
  に配属され、CCD image sensor の開発研究に従事。萩原はCCDが固体撮像装置として
  最適であると信じいていたが、そこで学んだことは、SONYのカメラ事業部の仕様を全く、
  満足していないことを知らされた。

  表面型CCDの転送効率は、99.9 % しかなく、まったく使いものにならない。

  埋め込み型のCCDは、転送効率は 99.999 % もあり、当時のNTSCの画像素子数が 
  720H x 512V 程度だったので、実用ぎりぎり可能だった。

  転送残りは、最大でも出力回路から一番遠い位置にある画素で、垂直方向に512回で
  水平方向に720回で、合計で、720+512=1232回の転送を実行すればよく、転送
  残りは、 1.232 % でSONYのカメラ事業部の厳しい要求をぎりぎり満足していた。

  しかし、CCDは本来MOS構造の光感知素子構造で、感度は不十分だった。

  MOSの電極は、Polysilicon と言えども、金属性の電極で、金属は元来、光を通さず、
  鏡の様に反射する性質があり、特に短波長(青色)の光は全く、CCD型の光感知素子
  構造では、光吸収率が悪く、使い物にならないとのカメラ事業部の厳しい評価だった。

  萩原はSONYに入社してその事にたいへん驚いた。

  当時、もう世界の企業はCCDを使うことを断念し始めていた。

  日立中研の久保さん竹本さんともISSCC1974の国際学会でお会いしてからよく国内
  学会でお会いし親しく接していただいていた。各社、CCDは暗電流や白点の欠陥が
  多く生産性が悪く造りにくく、使い物にならないとの話だった。それに比較し、プロセス 
  が単純で、量産性が期待できる、MOS型の Image Sensor の開発研究に集中し、
  すでに日立は高画質のきずのない映像を手にしていた。

  このCCD型の光感知素子構造では表面に受光時、強い電界が生じ、複雑なCCDの
  プロセスによる不純物の混入確率も大きく、白点が多数発生し、またシリコン表面の
  捕獲準位による再結合暗電流が大きかった。萩原はその欠点を教えられ痛感して
  いた。SONYが採用した、透明電極のCCD型の光感知素子構造はだめだと痛感した。
  SONYが採用した、CCD型の透明電極でも、電極がある以上、シリコン界面に強い
  電界が生じ、表面再結合準位により暗電流が大きく、かつ、界面捕獲順位により、
  1/f  捕獲雑音( 1/f trap noise ) を避けることができなかった。埋め込みチャネル型
  CCDは、転送効率が 99.999%と ぎりぎりの実用化に耐える値だったが、受光時
  の暗電流が大きく、埋め込み型CCDの受光部は採用不可能だった。

  CCDの受光素子は大問題をかかえていることを萩原は学んだ。そこで、萩原は当時
  日立が採用した N+P接合の光感知素子構造を見直した。こちらの方が生産性がよく
  素性もいいと感じた。感度はいい、しかし問題は、残像残りと、配線(CkT)雑音だった。

  残像があると、高速撮影には向かない。飛行機の離着の様な映像は動きが激しい。

  一方、完全空乏化電荷転送が可能なCCD型の光感知用受光素子構造は、いろいろ
  欠点があるが、残像なしは実現する。何とか、N+P接合の光感知素子構造の長所と、
  CCD型の光感知用受光素子構造の残像ない特徴を生かす構造がないかと模索した。

  萩原は1975年2月入社してすぐCCDの欠点を社内のカメラ部門担当の先輩から学び、
  その解決方法を後に発見し、1975年11月に特許を2件出願することなる。

  萩原入社当時、SONYは受光部に透明電極を採用し、横型OFDの CCD Image Sensor
  を本命としていた。萩原はその設計評価担当技術者として勤務していた。最終的に
  残像のない IT方式のCCD Image Sensorを、SONYは世界で初めて1980年商品化
  に成功した。萩原がその設計評価を担当した。開発部隊は総数でも10人を満たない
  部隊での仕事だった。CCDの設計とその設計CADツールは萩原1人で担当していた。
  CCD image sensor のデバイス特性の評価と再設計改良へのFeedbackも萩原1人
  の仕事として課せられていた。カメラシステムに仕上げたのも、西村さんと名雲さんの
  おふたりだけの仕事、実際この2人の現役技術者の仕事により、この商品は完成した。



しかし、このCCD型の構造ではいろいろと満足しない特徴があり、萩原は新構造を考案する
必要を切に感じていた。それで萩原はソニー厚木工場の Bipolar プロセスの自習経験から
P+NPNsub 接合(サイリスタ―)型の光感知素子構造、後に、 垂直OFD付き Pinned
Photo Diode の発明に至った。

CCDのプロセスでさえ、複雑で問題だらけなのに、それに Bipolarの製造技術がさらに、
必要となるということで、当時のCCD開発部隊のTOPの拒否反応は当然の結果だった。

しかし、萩原はSONYならできると確信していた。世界があきらめていた Bipolar Transitor 
の生産技術を確立したのも SONYであり、SONYの厚木工場は世界で最初の、Bipolar 
Transitor 工場であり、また萩原が実習していた頃は、SONYの厚木工場は、世界で最大の
カラーTV信号処理用の集積回路(IC)の生産工場であった。SONYはそれだけ若くて元気で
怖さ知らずの、創造性豊かな会社だった。SONYの生産技術とその技術者魂はすごい。


いろいろな光感知素子の特徴を比較した。萩原は強く、自分の発明のP+NPNsub 接合
(サイリスタ―)型の光感知素子構造の有利性に確信し、自信を持って、当時の半導体
開発部隊の責任者TOPに説明し理解を求めたが、理解されなかった(大涙)。

SONYのCCD開発部隊の技術者は、純粋の半導体製造プロセス開発技術者とデジタル
MOS回路の設計者ばかりで、半導体物理と半導体デバイスの構造とその動作原理を
理解している技術者は皆無で、萩原の発明を正確に評価できる環境ではなかった。

 

そういう環境であったが、当時の上司の越智課長と山崎係長に2つの特許の申請の
承認をお願いしたが、デジタルMOS回路技術者だった越智課長と山崎係長は全く
半導体物理も半導体デバイスの動作原理の知識が乏しく、萩原特許の価値を理解
してもらえなかった。越智課長はこんなものできるわかないと冷笑的だった。しかし、
山崎係長は「おもしろいので出してみたら」と、運よく、サポートしていただけた。

1つ目の特許は、裏面照射型の Pinned Photo Diode の基本特許である。

「こんなものは実現難しい」とのことで、発明特許出願のみで、特許権利化審査
までは必要ないとの萩原の上司の判断だった。まったくこの特許の価値を理解
してもらえず、またこの特許出願の事実は、上司の越智課長と山崎係長の2人
のみがSONY社内で把握していた。

最終的に、このおふたりさんもその存在をお忘れになられた。

越智課長が出版した後の書籍には萩原のこの発明の引用の形跡は全くない。
いろいろな開発方針の意見相違もあり、故意的な越智課長は萩原の貢献に
関しては言及をさけて、成果は組織のTOPとしていろいろ自分のものとされた。
その詳細な内容は後で説明します。当時としては技術者の仕事を組織管理者
があたかも自分のした仕事に様にTOPに報告したり、部下が題した特許を見る
立場であること、特許が秘密扱いであることを利用して、その部下の特許を
ヒントにまたは部下から聞いた話をもとに、部下に内緒にあたかも自分が考えた
特許の様に申請されることは会社の中で当然の様にされていた。また日本では
論文博士の横行し、部下の仕事や管理下の技術者のした仕事を自分の実績と
して大学に論文博士の申請をする管理職が横行し国際社会からは非難と浴びて
いた時代でした。萩原の近くでもそういう不正が横行していた時代でした。しかし、
部下として社員としてなかなか上司にに文句言えないで泣き寝入りする場合が
多い時代でした。今では、特許出願者や、製品開発者自身を、社内の広報雑誌
や社外発表で、顔入りの開発者の記念写真をも掲載して、技術者を激励します。
残念ながら萩原が現技術者だった1970代の日本の企業では悲しい状態でした。



もう一つは垂直 Oveflow Drain 機能を装備した Pinned Photo Diode の発明である。
この特許は幸いにも日本国内特許の権利化申請に関しては、当時の上司だった、
越智課長と山崎係長の承認が得られたが、海外特許までの必要性は認めてもらえ
なかった。USP特許にする許可はでなかった。まったくその価値を認めてもらえなかった。

これが最終的に不幸のはじまりだった。後に米国 Fairchild社から 垂直OFD機能の
Early 特許を武器に、SONYのimage sensor ビジネスに対して、特許使用料で、総額
600億円もの要求があった。この萩原特許がSONYのビジネスを守った。

また、日電からもほぼ同額の、寺西考案の1979年出願の Buried Photo Diode 特許を
武器に、SONYは日電からも攻撃を受けた。しかし、それもこの萩原特許がSONYの
ビジネスを守った。

この2つの、萩原1975年発明の基本特許は現在もSONYのCMOS Image Sensorの
ビジネスを、SONY original HAD sensor の商標の Brand 銘柄を武器に、SONYの
ビデオカメラ市場の制覇を助けている。




以上の説明から、

(1) Pinned Photo Diode は萩原の1975年の発明であることも、

(2) 縦型Overflow Flow (VOD) も 萩原の1975年の発明であることも、

(3) 裏面照射型のPinned Photo Diode も、萩原の1975年の発明である、

ということは明らかな事実である。

しかし、残念ながら、この2つの特許は、日本語特許ではあり国際社会に
知られる機会は全く今までないままとなってしまった。SONY社内でもその
存在は全く今まで知られていなかったのが事実である。

その要因を造ったのは、当時のCCD開発のTOP責任者の越智課長の
考案の市松型CCD Image Sensorの開発にけちをつけた部下の萩原
の態度が問題だったからである。また、当時SONY開発部隊が総力で
本命としていて、萩原のその設計評価を担当した、透明電極採用で
横型OFD機能を持つ、「世界初の残像のない IT方式の CCD Image
Sensor」 をも、量産性に問題あると、その 開発にけちをつけた部下
の萩原の態度が問題だったからである。萩原は自分考案のこの特許
構造をSONYの本命とすべきと主張したが、聞く耳などこにもなかった。


1975年当時、出願者の萩原と、その時の上司の越智課長と山崎係長の
3名のみがSONY社内で存在をしっている関係者で、他の社員には特許は
極秘扱いでで、その存在が開示されることはなかった。またその当時の
上司の越智課長と山崎係長はデジタル回路設計技術者で、半導体物理と
半導体デバイスの構造とその動作原理の知識はなく、萩原特許の価値を
理解してもらえる環境でもなかった。たいへん不幸なことであったが、その
まま忘れ去られ、現在に至った。一番の問題は萩原自身が自分の特許の
存在と、その技術内容と価値をPRすることをずっと怠っていたことである。

そしてそれが現在に至る。




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これは70歳じじいのぶつぶつぼやきの独り言でした。

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The AIPS image sensor watching at its inventor, Yoshiaki Hagiwara.

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