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The AIPS ( Artificial Intelligent Partner System ) Home Page 007
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現在、デジタルテレビになりました。この3つの、萩原1975年基本特許が

提案する究極のimage sensor 構造を実現する時代にやっとなりました。



200 万画素=(1920H x 1080V = 2073600 pixels  1920H~2K画素)

800 万画素=(3840H x 2160V = 8294400 pixels  3840H~4K画素)

3300 万画素=(7680H x 4320V = 33177600 pixels 7680H~8K画素)

となります。転送効率が 99.999% あっても、CCD転送方式では電荷の

転送残りが必ずあります。最大 7680H + 4320V = 12000回の電荷転送

動作が必要となります。0.001 x 12000 = 12 % もの絵素情報の混入(混色)

問題があります。また、CCD電荷転送方式では、大容量電極の充放電にかかる

消費電力も大きくなります。CCD転送方式はもはや魅力的な存在ではありません。


しかし、それでも場合によっては、この実施例に示す様に、このSnap Shot 

機能の実現のための、電荷一時記憶容量素子として、また隣接する電荷転送

用電極への信号電荷のCCD転送方式として、充分立派に今でも機能します。





当時はまだ PPDもSONY HADの名前もなかった時代でした。

この3つの特許は構造特許で、その請求範囲は、超高感度、低雑音、
残像なしの高性能光感知素子構造を定義しています。

その構造体の使い方や動作仕様ははすべてその構造体の特許に
付属するものです。会社の見解として特許の使い方や動作については 
KNOWHOWに当たるものだとし、詳細は記載不要とのことでした。

他社の追従を許し、特許を出すことにも消極的な時代でした。

今の時代とはまったく違った考えですね。

今では集積回路のLayout 図やComputerソフトまで特許対象です。


この1975年の萩原出願特許は、萩原が1971年と1973年に
SONYの厚木工場でのBipolar Transistor の集積回路の
プロセス自習経験から学んだことがヒントとなりました。




また萩原が1975年2月にSONYに入社した頃、SONYではCCD開発部隊の
TOPの越智さん発明の市松方式 (ZigZag IT 方式)の CCD image sensor
が本命として有力視されていました。

水平絵素数が半分でも、見かけの水平解像度が2倍になるとの話でしたが、
萩原はそれを画像処理に関する MTF (Modulation Transfer Function ) の
理論を使い、理論的に、見かけの水平解像度に限っては確かに2倍になる
ことを解明しました。

萩原はその業績でSONY中央研究所でCrystal Award を受賞しました。

しかし、萩原はななめ方向や垂直方向の画質が劣化し、総合的に絵素数が
半分であるからと言っても、そんな甘い話ではないと、越智さんの発明を
攻撃しました。萩原の上司だった越智さんを怒らせてしまいました。

これは萩原と越智さんの社内での長い対立の始まりを示すものでした(大涙)。

萩原は最終的に組織のTOPの方針・意見と会わない反分子として職場を追い
出される運命となりました。当然の結果でした(大涙)。

しかし、萩原は自分の持つ技術・KnowHowをしっかり後輩に引継ぎました。
いつの世も、先駆者が道を最初に開拓しても、それが実を結ぶまでには、
多くのたちがその道をさらに整備する必要があります。その努力には、
長い年月が流れます。そして、やっと仕事が成功した時、その成功の実績は、
その成功の瞬間に、組織のTOPに君臨する方の業績となりました。

越智さんは萩原の努力と研究報告書を参考にして、論文にまとめ、論文博士
の学位を取得しました。しかし、その論文には萩原の研究報告者の引用は
ありません。すべて自分1人で成し遂げた研究の様な印象を与える記述でした。

また別件では、後で詳細を説明しますた、 1978年の萩原の仕事に関しても、
その時の、組織のTOPに君臨する管理職として、萩原の成果を自分の成果と
しています。それは当時としては当然のことでした。部下の成果は上司の成果
にして何が悪いのかと言われても仕方のない時代でした。 

1978年、萩原が種をまき、育てた苗を、萩原の同僚と先輩技術者が萩原に
協力し、皆で努力し、大きな株にしてくれました。その成果を、SONY TOP が
総力で New York と 東京で Press Conference を開催しました。その仕事
でも 萩原は 越智さんにその成果をピンはねされてしましました。

のちにSONYの副社長になった、当時のカメラ開発部のTOPだった森尾さんと
共に、越智さんもCCD開発部隊のTOP管理者というこで、森尾さんと越智さん
の二人は、1981年度の世界的名誉あるライン賞を、お二人で受賞しました。

萩原はしっくり行きませんでした。これが日本企業の現実かと、これでは米国の
トランジスタ―の発明がベル研の所長の業績となる。トランジスタ―の発明者より、
ベル研の所長の業績となり、ベル研の所長が出世する話の様に、米国から
帰国した萩原は非常に疑問に感じていましたが、まわりの日本人の社員は
それで当然なんだよ、と言った表情でした。萩原だけでなく、皆そうやって、
上司にピンはねされているのが現状でした。

しかし、少なくとも技術者が熱心にやろうとしていることを、「本命のじゃまを
するな。」と、冷ややかに水をさしていた上司でした。プロジェクトが失敗したら
当然それは上司の責任になります。しかし、成功しました。成功した時は、
その成果をピンはねすることは当然のことでした。それが風潮でした。

しかし、今回は、萩原だけでなく、萩原を支援したまわりの萩原の友人や
協力者は、不満の顔を隠せませんでした。その実際仕事をした技術者は、
越智さんの意志に反して、自発的に萩原を支援してくれていた、萩原の
友人や先輩技術者のみなさんでした。萩原の開発努力に非協力的だった
TOPが、組織のTOPということだけで、栄誉ある賞を会社代表として受賞
した形でした(大涙)。 実際に仕事をした技術者は、下記の方々でした。


平田、大津、阿部、萩原、 
" 2/3 inch 狭チャンネルCCD撮像素子"
テレビジョン学会、テレビジョン方式・回路研究会 TEBS69-3,
電子装置研究会 ED 555, pp.13-18, Feb. 27, 1981.

島田、梶野、西村、小室、中田、南、
"狭チャンネルFT型CCDによる単板カラーカメラ"
テレビジョン学会、テレビジョン方式・回路研究会 TEBS70-4,
Sept.8, 1981.


実際に仕事をした技術者は上記の方々です。

しかし1981年度の世界的名誉あるライン賞を受賞したのは
越智さんと森尾さんでした。越智さんも森尾さんも技術的には
全く何も貢献していない方々であることは明白です。彼らが
技術的な貢献をしたという記録はどこにもありません。特許
を申請したという記録もこの受賞に関しては皆無です。

実際にこの仕事の基本特許を申請したのは萩原です。

萩原の特許、P+NPNsub接合型の光感知素子構造の発明に
関しては全く評価の対象とされませんでした。ここでも、萩原
の発明業績が、SONYの管理職に盗まれたことになります。

その後も、米国 Fairchild 社とSONYの特許戦争(1991-2000)
でも、この萩原特許は攻撃を受けました。そして、NECからも
水面下の特許戦争で、萩原特許は攻撃を受けることになります。

この開発研究チームの仕事の詳細は、他社の追従をさける為
にということで、学会発表は慎重に時間をかけて社内審査され、
社外発表が遅れて承認される場合が多いです。国内の学会で
の詳細発表は、公式な特許申請などがすべてが終わってから
技術発表という形にされています。試作発表は製品発表は、
まだ商品として販売するわけでないので、特徴ある優秀な性能
などは発表できます。その試作品の細かい技術情報は Black
Box のままでも、表面的な「高性能な特徴」については新聞発表
は可能です。そして、その試作品の成果は、開発責任者の業績
とされても仕方がないということになります。

実際、開発チームの業績を、開発部隊のTOPの越智さんと森尾さん
にピンはねされた事になります。開発担当者だけでなく、まわりで
見ていた同僚技術者も、そのことが、理解できない表情でした。

ttps://www.sony.co.jp/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-11.html


この細かい内容はSONYの社史に記載されることもありませんでした。

今の常識では絶対に許されないない横暴な行為が
当時は当然とされていました。

論文発表者が外国人なら、その業績に関する仕事をその発表者が
国内でまず何かの形で、先行国内発表をしていても当然です。

その仕事に関連する発明特許も、その 論文発表者が国内での
申請があった可能性もあるわけです。

国際学会やいろいろな業績をたたえる委員会は多方面にいろいろ
な情報をもとに判断する責任があるわけです。


特に開発者が誰かを認定するような受賞にかかわる委員会は
責任が重要です。世界中の国の、世界中の言語で記述された
論文を、すべて精査しないと、真の開発者だとは確認できません。

1981年度の世界的名誉あるライン賞を受賞者の決定作業で、
受賞者を越智さんと森尾さんとした事は、明らかに、これは
事実誤認もはなはだしい事件と言わざるを得ません。

また、発明者が誰かを認定するような受賞にかかわる委員会は
もっと責任が重要です。世界中の国の、世界中の言語で記述
された特許を、すべて精査しないと、真の発明者だとは認定でる
はずはありません。

なにかおかしいと萩原は感じました。そういう論文発表者の
内容について、その発表者の国内論文や特許を調べたら、
当然、越智さんも森尾さんの名前は入っていません。国内の
技術論文の発表者や、それに関係する重要な特許出願者の
名前にも、越智さんや森尾さんは含まれていません。

それなのにどうした受賞できたのでしょうか? 当時、アメリカ
帰りの萩原には、全く理解できない、日本企業の慣例でした。


また、受賞審査委員会も、技術文献記録調査の精査を怠り、
かなりいいかげな、受賞者の決め方だと、萩原は感じました。

実際には、仕事も発明もしていない方々が、組織のTOPだったと
いうことだけで、もらっていたわけで、当時は、こんなことがまかり
通る時代だったということです(大涙)。


その事実は、萩原が1975年に発明出願し、萩原が自ら設計し、
自らプロセスラインで試作した、できた CCD chip の特性を
自ら評価し、実現したのお話でした。しかし、その事実は、外部
には知らされることはありませんでした。あたかも、組織の仕事
であるがごとくされ、かたづけられてしまっていました。そして
組織のTOPだけの業績とされてしまいました。

萩原の仕事はまったく評価されず、後に副社長まで登りつめた
森尾さんとCCD開発TOPの越智さんの実績とされました。彼ら
お二人の出世を助ける材料に使われました。

その後も、越智さんはいろいろな面で萩原の業績を故意的に
隠し通し、結果として越智さん自身の実績としました。

特に特許申請やCCD開発の業務報告は直属の上司だけが
目にできる秘密扱い資料でした。萩原の出したアイデアを
もとにそれをヒントに、萩原の上司だった越智さんは一人で、
特権を利用して、他の人には情報公開せず、秘密扱いとして、
いろいろこっそりと特許を一人で出願できる立場に越智さん
はいました。特許出願が関係者以外極秘扱いされ、直属の
上司以外にその詳細が部下から報告されないという状態が
上司の横暴や悪用を招くことになるわけです。

たとえば、Frame 方式か、IT 方式か、どちらにするかと、
本命となるCCDの方式 (のちの FIT 方式)を検討して
いた時のことでした。「両方くっつければいいよね。」と、
萩原は発言したことがありました。しかし、いつのまにか、
それをヒントに、萩原の上司だった越智さんは一人で、
上司の特権を悪用して、こっそり一人で特許出願をして
いました。こんなことが実際に許されるのかと理解でき
ませんでした。堂々と、そうする技術職の上司がどこの
会社でも存在するとの話でした。特許出願が公開される
までには2~3年はかかりますから、誰も知らないうちに
部下のアイデアを吸い上げてはいつでも、組織のTOPは
こっそりと、自分の権限で特許が書けるわけです。その
アイデアに特許出願の価値があると判断したのはその
組織のTOPでしょうが、そのアイデアは部下が最初に
出したのだったら、組織のTOPは、「いいアイデアなので、
特許申請しなさい。」と指示命令するのが組織のTOP
の本当の姿のはずです。しかし、現実はそうではないと
いうことです。

いずれにせよ、「最初に特許に出した人間が勝ち。」で
ある事は、萩原も後で痛感することになりました。

いつの世も、上司に成果をピンはねされる、悲しい
詐欺行為や泥棒行為は絶えません(大涙)。

また、当時のこの萩原の中研時代の解析結果を示す
社内論文を、越智さんの論文博士取得の利用された
こともありました。どこの会社でも部下の仕事を盗んで
いや部下に論文を書かせる上司もいるようで、まるで
暗黒社会の様でアメリカ帰りの萩原にはショックでした。

萩原の中研時代の MTFの解析報告書を逆に利用し、
あたかも自分の論文に様に書き換え、自分の発明の
根拠として、水平方向の解像度が見かけ上、画質が
見かけ上、向上することだけを強調した論文に越智
さんはしていました。越智さんは総合的な画質の劣化
現象は強調せず、目立たない表現にとどめています。

その内容を論文にまとめ、大学に申請し、越智さんは、
論文博士になりました。


1975年のSONY original HAD sensor の2つの基本特許
の存在を含めて、萩原の仕事に関してすべて無視し引用
することを、越智さんはいつも避けるようになりました。

越智さんの博士号論文には、萩原の中研での仕事として、
萩原が社内報告書に中研時代にまとめたものです。社内では
取り扱い注意とされ、、少数の関係者以外閲覧不可の萩原
の解析報告書でした。その状態を越智さんは利用して、萩原
の仕事の引用はすべてふせて、すべて越智さん自身、自分が
やったとの、偽りの内容でした。

しかし、それでも、その萩原の仕事の実績は、SONY中研の
最優秀研究賞、SONY中研 Crystal Award賞として、事実
として、ひとつだけ記録されています。

1975年当時は、日本では論文博士の誕生が横行し、
世界から冷たい批判を受けていました。

また企業の中でも、その開発研究部隊の組織のTOPと
いうことだけで、部下の業績や発明を盗む管理職が
まかり通る時代でした。

萩原も、その被害にあった犠牲者の一人でしかありませんでした。

それが当然として横行される風潮でした。

その風潮を崩すべく、個人技術者の業績をたたえる制度が各社で
発足始めたのもその頃でした。幸いにも萩原の仕事の過去の
実績はSONY中研時代の優秀研究賞として記録され、また日本国
特許出願という形現在でも記録され、日本の財産、SONYの財産
として公開されてい事は、萩原の仕事実績を証明するものとして、
評価された証拠であり、技術者としてたいへん幸せなことでした。






萩原は、この理論を根拠に見かけの水平解像度は良くなるが、斜め方法の線には
めちゃめちゃに、ぎざぎざ(ZigZag)が出て、画像の劣化を招き、使い物にならないと
萩原は主張しました。当時カメラシステムを担当していた、山中さん、名雲さん、西村
さん部隊は、その画像劣化を補正するための画像処理方法を工夫するために無駄な
努力を、上司である越智さんから強いられていました。萩原の主張に好意的でした。

上司である越智さんを萩原はたいへん怒らせました。しかしその結果、越智さん発明
の市松方式は原理試作で終わり、従来の IT 方式が、SONYがめざす最終目標の本命
とすることが、プロセス担当部隊との会議で決定されることになりました。

SONYは当時、透明電極を使いかつ横型の Overflow Drain 構造を採用した、従来の
IT 方式 CCD image sensor を本命として 全社で総力をあげて開発商品化する方式
となりました。萩原もその IT 方式 CCD image sensor 設計者して従事しました。

その原理試作はすでに1978年当時には完了していましたが、商品化は1980年でした。

この仕事でも萩原の仕事は越智さんにピンはねされました。実際にこの CCD 
image sesnor を開発した技術者は, 国内での学会発表ののみの許可が出ま
したが、国際学会での発表の許可はありませんでした。


   その成果は国内学会でのみの発表が許可されました。

   狩野、安藤、松本、萩原、橋本、 ”インターライン転送方式CCD撮像素子”
   テレビジョン学会、電子装置研究会 ED 481, pp.47-52, Jan 24, 1980.

越智さんはこの5人の仕事の実績を盗みました。

この技術者の組織管理職TOPであることだけを理由に
越智さんはこの技術者の実績を盗みました。

これは世界初の小型コンパクトデジカメの原形でたいへん
歴史的な重要なカメラ開発史の1つのページでした。

越智さんは、その事をよく認識しており、自分だけが
あたかもやった様に強調せべく、国際学会での論文発表
の著者となりすました。これには開発者はおどろきました。

SONYが初めて商品化に成功したのは、萩原設計の
 「XC-1」の2/3 inch 12万画素のIT-CCD方式の
SONYのCCD開発品( ICX-008 )を2個使ったものです。

その CCDの出力信号を、その後段では、浅井田さんと
名雲さんが、CDS,AGC,ADC 処理以後、全デジタル化した、
カラーカメラ(SCX-51)でした。

後段は浅井田さんと名雲さんが実際にやった仕事でした。

越智さんは、実際にCCDを開発した、この5人(狩野、安藤、
松本、萩原、橋本)の仕事の実績を盗みました。

この技術者の組織管理職TOPであることだけを理由に
越智さんはこの技術者の実績を盗みました。

自分だけがあたかもCCDを開発した技術者の様な位置づけで、
国際学会での論文発表の著者となりました。

F. Nagumo, T.Asada and S.Ochi, " CCD Digital Color Camera ",
IEEE Transaction on Consumer Electronics,  VOL.CE-26,
No.8, pp. 339-352, Aug. 1980.

実際、名雲さんと浅井田さんは、越智さんに抵抗した形でしょうか、
自分たちの仕事の論文を自分たち二人だけの連名で、その技術
内容を別の論文でさらに詳細に発表しています。

T.Asada and F.Nagumo, "A New CCD Digital Color Camera
using Direct Encoding Method", Int. Conf. on Digital Signal
Processing, September 2-5, 1981, Florence Italy.



1980年6月に、IEEE Consumer Electronics にて、TOPの管理者の権限で、実際に
カメラ信号処理系を担当した技術者の浅井田さんと名雲さんが発表することになり
ましたが、なぜは著者に越智さんの名前がくっつき、3人での論文発となりました。

その発表は、たいへんな反響を呼び、Outstanding Paper Awardを受賞しました。
ここでもそのCCDの絵素構造と、そのCCDのimage sesnor の全体設計を担当した
萩原はじめ、実際にCCDプロセス開発を担当していた、狩野さん、安藤さん松本さん
やカメラ回路システムを担当していた橋本さんや山中さんなど、開発部隊の人間は
全員皆、越智さんにその仕事の成果をピンはねされた思いでした。





●結論としてこの仕事をした実際に仕事技術者は、
   以下に示す技術者の方々でした。

(1) CCD Image Sensor Chip 開発技術者  (国際学会での技術発表なし)

狩野、安藤、松本、萩原、橋本、 ”インターライン転送方式CCD撮像素子”
テレビジョン学会、電子装置研究会 ED 481, pp.47-52, Jan 24, 1980.

(2) CCD Color Camera のデジタル処理技術の開発技術者

村田、名雲、中田、安井、西村、小室、粂沢、”線順次 2CCDカラーカメラ”、
テレビジョン学会、テレビジョン方式・回路研究会 TEBS 60-2, pp. 27-32, Jan 25, 1980

T.Asada and F.Nagumo, "A New CCD Digital Color Camera
using Direct Encoding Method", Int. Conf. on Digital Signal
Processing, September 2-5, 1981, Florence Italy.




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これは70歳じじいのぶつぶつぼやきの独り言でした。

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The AIPS image sensor watching at its inventor, Yoshiaki Hagiwara.

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